風のトポスノート748
意識と本質
2010.5.17

   東洋哲学一般の一大特徴は、認識主体としての意識を表層意識だけの一重構造としないで、
  深層に向って幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの諸層を体験的に拓きながら、
  段階ごとに移り変わっていく存在風景を追っていくというところにある。
   だから、東洋哲学においては、認識とは意識と存在との複雑で多層的なからみ合いである。
  そして、意識と存在のこのからみ合いの構造を追求していく過程で、人はどうしても「本質」
  の実在性の問題に逢着せざるをえない。その実在性を肯定するにせよ否定するにせよ、であ
  る。
  (井筒俊彦『意識と本質』岩波書店 1983.1.21.発行/P.329)

表層意識の世界においては、世界はさまざまな「名」、つまり「言語」によって分節され、
事物も「本質」によって規定された存在者として現れてくる。
しかし老子にもあるように、
一切の存在者がそうしたかたちで現れてくる以前の「道」には名前がない。
従ってそれを「~の意識」の志向対象としてとらえることはできないのである。
それをあえていえば「無対照的、非志向的意識、つまり無意識」ということになる。

「無意識」の究極は「絶対無分節」の、いわば「一者」である。
しかし「一者」といってしまったとき、その「本質」をある種実在的にとらえることになる。
仏教において、「縁起」という概念によって一切のものには実体がなく
ある種関係性においてあらゆるものが生起するといったのは、
「本質」を実在的にとらえることを避けるためだったのだろう。

その「本質」を実在的にとらえるかどうかは別として、
表層意識において、「絶対無分節」の根源的「存在」を
「~の意識」の志向対象としてとらえようとすれば、ある種の狂気を内包せざるをえない。
その狂気を避けるために、たとえば荘子の混沌のような話ができたりもする。
「絶対無分節」としての「混沌」に穴をあけていけば「混沌」は死んでしまう、という話。

「絶対無分節」をなんとか理解するために、
それをたとえば「空」とか「無」といった「概念」の形でとらえようともするのだけれど、
実際のところ、その「空」や「無」の概念は、「何もない」とかいふうに
よくわからないものとして理解されてしまうことにもなる。

「空」や「無」だからということで、
霊的なありようさえ、ある意味、唯物論的に否定されてしまったりもする。
仏教が浅薄にとらえられ唯物論とうらはらになってしまうのは、
「意識と存在との複雑で多層的なからみ合い」を
プロセス抜きでばっさり切ってしまうからだろう。
もちろん、禅などの修行の途上において現れてくる
さまざまな妄想的な現象にいちいちつきあっているわけにはいかないのだけれど、
とらわれないということと、それが存在しているあるレベルが
ただ単に「無い」ということになってしまうこととは異なる。
「無い」からといって、表層意識において生起している事物が
単純に「無い」わけではないし、
またその逆の振幅として、事物の生起をそのまま放置し実体化し、
無前提に肯定してしまうわけにもいかない。

つまり、ばっさりと切ってしまうのでも素朴に肯定してしまうのではなく、
さまざまなレベルにおいてそれなりの仕方で生起している世界が、
いったいどのように関係しあっているのかについて見ていく必要があるということである。
おそらく、自然学も含めて射程においている神秘学の課題もそこにある。

禅においても、課題となるのは、
深層意識と表層意識とを単純に区別するのではなく
ある種同時に機能させることでもあるのだろうけれど、
あるレベルにフォーカスすることによる自然学的な探求といったものは
どうも見られないようである。
このことはもっと注目されてよいことのようにも思う。
神秘学は科学の拡張としても位置づけることが可能なところがあるが、
禅と科学というのは折り合いがいいとはいえそうもない。