風のトポスノート747
渡り
2010.5.17

 

 

   今年の四月には、その衛星追跡調査で、オオソリハシシギが南半球から北半球へ
  一週間ほどかけて、一万キロ以上もの距離を、無着陸で飛び続けていたことが確認
  された(これは共同通信社の報道による)。追い風はなく、全くの羽ばたきだけ、
  自分の筋力だけを頼りに、夜も昼も飛び続けたのである。これは別に、何かに追わ
  れていて絶望的な状況の中で起こった(…)火事場の馬鹿力的な快挙ではなく、年
  中行事の一環として、つまり自分のライフスタイルに組み込まれた無理のない(こ
  ともなかろうが)イベントだったのである。
  (・・・)
   そう言えば以前ウトナイ湖で、そこにオーストラリアで標識を付けられたオオジ
  シギがはるばる渡って来ていたことを教えて貰ったことがある。キョクアジサシも
  南極北極間を渡るが、彼らは見るからにスピード感のある、流線型の体つきや力強
  そうな羽を持っている。だがシギの仲間は体型もずんぐりぼってりして、クチバシ
  か足かどこかがアンバランスと思われるぐらいに長いものが多く、失礼だけれどな
  んとなく間が抜けて見えて、とてもそんな偉業を成し遂げるような種には見えない
  ーーこれも余計なお世話というものなのだろうけれど。
  (梨木香歩『渡りの足跡』新潮社/2010.4.30発行/P.78-79)

先日、ひょっとしたらと思って出かけた河口で
オオソリハシシギとチュウシャクシギを見つけた。

チュウシャクシギは、その下に向かって湾曲した細長い嘴で
干潟の穴の中に隠れている蟹をほじくり出しては食べていた。
蟹を食べるとき、おもしろいことに、蟹の片側の足をくわえたまま振り回し、
足を取り除いてから食べていた。器用なものだ。

オオソリハシシギは何をどうやって食べているのだろうかと思って観察していたが、
チュウシャクシギのパフォーマンスに比べて、いまひとつ見ていてわからなかった。
嘴が、チュウシャクシギのとは方向に大きく上に反り返っているので、
同じ泥のなかとはいっても、何かをすくい上げて食べているのだろう。

さて、オオソリハシシギもチュウシャクシギも、北極圏などの北半球で繁殖し、
南半球へと渡り越冬し、また北へと帰っていくという。
先日見かけた鳥たちは、北へと帰っていく渡りの途中で
河口に立ち寄っていたということになる。

鳥の渡りや魚の川への遡上など、
おそらくそれらは、単に動物の種の移動というだけではなく、
地球規模における季節の運動のようにイメージすることができるように思う。

なぜわざわざ困難に困難を重ねながらも渡りをしなければならないのか。
それを単に「繁殖や食餌のために必要」とかいうことで答えることはできないだろう。
もちろん、餌付けによって、
渡りをしていた鳥たちが渡りをやめてしまう、という例もあるようである。
だから渡りで渡ってくる鳥が年中棲息しているという状況にもなる。

とはいえ、地球規模における大きな季節の運動としてとらえるならば、
そうした渡りや川の遡上、回遊などがまったくなかったならば、
ひょっとしたら、地球生命そのものが大きく滞ってしまうのではないかだろうか。

ところで、鳥にも定住派と移動派があるように、
人間にもそのような傾向性があるようにも見えてくる。
というか、かつて起こった民族大移動のような事件は、
ある種、地球規模での地球生命の運動としてとらえることができるともいえる。
もちろん古代におけるそうした大移動だけではなく、
ある意味、政治的な事件などで起こる人間の大規模な移動などにしても、
そうした運動の一変種だとしてとらえることで、
見えてくるものもあるのかもしれない。

大移動ではなく、日常的な移動でも、人間には大きく分けて、
じっとしていたい人と移動ばかりしている人がいる。
個人的なネーミングだけれど、移動ばかりしている人のことを
ぼくは青魚の総称として「サバ」と呼んでいたりする。
容姿やその性格から「サメ」と呼ぶ場合もある。
こうした青魚やサメは、回遊しながら呼吸するので、
泳ぎをやめると呼吸できなくなってしまうらしい。
(とはいえ、本当に呼吸できなくなってしまうのは、
マグロ、カツオなどの鯖科の多くやカジキ類、サメ、鰯、秋刀魚などで、
必ずしも回遊魚だからといって呼吸できなくなるとはかぎらないらしいが)

たぶん、そうした移動しないと窒息してしまうそうな人の移動癖というのも、
逆に鬱的に閉じこもっているというのも、
その人固有のなにがしかの魂の運動の反映なのだろう。

さて、話を元に戻して・・・、
今、夏鳥の渡りの季節ということもあり、
もう少し葉が茂ってくると観察もむずかしくなるので、
今年こそ今のうちに(とはいえすでにかなり夏の景色ではあるけれど)、
ということでキビタキ観察に出かけたところ、
昨日は、ようやく大山(鳥取県)でキビタキをカメラに収めることができた。
久しぶりでオオルリにもしっかり出会うことができたりもした。

こうした季節ごとの渡りを観察することは、
単に寒いか暑いかとか、季節ごとの行事とかいうことではない仕方で
(本来は季節の行事は、深い季節への感受性を深めてくれるものなのだけれど)
私たち自身の存在の地球との関わりを実感することにもつながってくるように思う。
少なくとも、ぼく自身、すっかり乏しくなった生命感覚を
そうした「イマジネーション」を通じて
少しずつ取り戻すことができているように感じている。