風のトポスノート746
議論の前提
2010.5.17

 

 

   プラトンは、弁証法的討論は、誰にでもできるものではないと考えていました。
  だから彼の教育システムでは、特別の資質をもった人間を厳格な試験で選抜し、
  いくつかの予備的訓練を経て、三十歳になって初めて弁証術を教えることになっ
  ていました。プラトンにしてみれば、現在の国語教育のように小学生や中学生に
  討論の仕方を教えるというのは、とんでもない危険なことなのです。
  (香西秀信『レトリックと詭弁/禁断の議論術講座』ちくま文庫 P.129)

「なぜ人を殺してはいけないのか」というようなテーマについて
小学生や中学生に討論させるというようなやり方は間違っていると本書では示唆している。

プラトンが挙げているという「弁証術」を学ぶ
前提ほどのものまでは必要かどうかは別として、
「論理」とくに「倫理」を背景にせざるをえないようなテーマについて議論する場合、
単に言い負かすだけを目的とした場合、その「論理」は単なる道具となってしまう。
テレビゲームのスキルにおいて、子どもたちが秀でているにも似て、
「道具」を単にメカニカルに使うとき、子どもたちは容易に残忍になることができる。
そこには、切実な「実感」が欠けているからである。

「論理」は絶対的なものではない。
これは「~の論理」というふうに使われることが多いように、
「~」というところに限定されている場合にある程度有効だというだけのことである。
だから「~」を外してしまえば、それは「論理」でもなんでもなくなる。
「知性」や「理性」といったものも同様である。

とはいえ、「論理」も「知性」も「理性」も不要だというのではない。
むしろその逆である。
人は「論理」、「知性」、「理性」を学び、身につける必要がある。
その上で、それらを絶対化しないことを切実に実感する必要があるのである。

だから、論理、知性、理性においてはなはだ不十分である場合、
なにがしかを議論できるだなどと思わないほうがいいし、
その方法を形式的にせよ教えるなどということは愚かだといっていいように思う。
早い話、言い放題はだれでもできるが、
その内容を生きることはだれにでもできることではないからである。

小さな子どもが「なぜ」と発することは
思い込みのはげしい大人には純粋な驚きであったりもするが、
それが驚きになるということにおいて
大人は自分がいかに既成概念の奴隷であるかを反省するのはいいとしても、
「なぜ」を、自分を抜きにして発し続ける子どもに対しては、
ある種、先のプラトンの例に代わるものを子どもに提示する必要があるように思う。

これは実際、肉体的に子どもである場合に限定できるものではない。
世にあふれている議論のほとんどは、
議論にふさわしい人物どうして交わされていることは希ではないだろうか。
「ディベート」とか称して行われたりもする子供じみた議論にしても、
それぞれの発言が、果たしてその発する人物そのものが
その根拠となるような仕方でなされているかをみるだけで、議論の内容はそれと知れる。

もちろん、発する側が自らその発言を体現できているとしても、
議論の相手が、それを受けとめることができないとき、
その剛速球は、経験あふれるキャッチャーのようには受けることさえむずかしいだろう。
悪くすれば、大けがをして、そのピッチャーを責任で訴えさえするかもしれない。
受けることができないときには、「投げないでくれ」と
あらかじめ言っておく必要があるにもかかわらず。
たとえば、本来の意味で「秘密」とされていることはこれに似ているのだろう。
発することはむずかしくはない場合でも、受け手はその最低限の資格がいる。

さて、シュタイナーが現代においては秘儀の公開が必要であるという姿勢でいたことは、
ある意味、その秘密を受け取る資格において、
受け手である人間の責任に期する時代になっているということでもあるのかもしれない。
包丁を、拳銃を受け取ってそれを悪用して「渡した方が悪い」とはいえないということである。
とはいえ、そのことがかなり意識的に悪用されて、(表面上は)なにも知らずにいる人たちに、
さまざまな詭弁のようなメッセージが日常的に垂れ流されていたりもする。
その意味でも、論理、知性、理性以前にいるということは、大変危険だといえる。
まずはそれらを身につけなければ、その限界について実感することもむずかしいからである。