風のトポスノート744
ライフスタイル(性格)
2010.4.28

 

 

   特定のライフスタイル(性格)を選択する決心をする前は、いろいろな
  ライフスタイルを試してきているはずなのである。それなのに、いつのま
  にか自分のライフスタイルを固定してしまう。一度身につけたライフスタ
  イルを変えることは容易ではない。不便であり不自由でもあり、可能なら
  こんなライフスタイルではなく別のライフスタイルであればいいのに、と
  思っていてもである。今の自分に身についたライフスタイルであれば、次
  に何が起こるかを想像できるが、それまでとは違うライフスタイルを選べ
  ば、たちまち次に何が起こるか想像がつかなくなる。
  (中略)
   不便で不自由だと思っていたライフスタイルでも、実は自分が選んだの
  であり、この先起こることが予想もつかないよりは、不便でもあえて変え
  ないでおこう、という決心をしているのである。それまでの慣れ親しんだ
  ライフスタイルに固執することには、そうするだけのメリットがあるとも
  いえる。
   そこで、慣れ親しんだライフスタイルを変えないでおこうという決心を
  不断に行っているといっていい。この決心をやめさえすれば、ライフスタ
  イルを変えることは可能である。可能だが、このライフスタイルでは生き
  ていけないというような経験をしていないので、多くの場合、ライフスタ
  イルを変えることはできない。
  (岸見一郎『アドラー 人生を生き抜く心理学』NHK出版 2010.4.25発行/P.74-75)

この引用で使われている「ライフスタイル」という言葉は、
ふつう「性格」という言葉で表現されている。
アドラーは、世界、人生、そして自分についての意味づけを
「ライフスタイル」という言葉で表現していて、
それが外に表れたかたちが性格であるというふうに考えているという。

いうまでもなく、アドラーは、
フロイト、ユングとならんで、心理学、精神分析を形成した
重要人物の一人だが、日本では言及されることが少ない。
ぼくもその著書などを読むようになったのは最近のことだが、
日々生きていくうえでは、この三人のなかでは、
もっとも勇気をもらえる人ではないかと思う。

アドラーは、過去向き、過去の「原因」に縛られて自縄自縛になるのではなく、
これからの「目的」に向かう自由を重要視している。
上記の引用で示唆されている「ライフスタイル」についても、
それを、変えられないものとしてではなく、
いわば、変えたくないから変えられないと思っているだけだという視点をとる。
過去が変えられない過去として表れてくるのは、
その過去という条件なしでは自分は生きていくことができないと
思い込んでいるからであって、
条件を変えようと真に思うのであれあば、
ある意味、過去(だと思っているもの)さえも変えることができる。

子どものときの環境や親の影響などはもちろん大きなものであって、
その「初期条件」から自由になることは大変困難ではあるけれど、
その「初期条件」だと思い込んでいるものは、
今の自分がそう解釈しているだけであって、
解釈を変えれば、「初期条件」そのものの意味づけは大きく異なってくる。

親は子どもに、「あんたはこうだから」といふうに
よく決めつける言葉を発したりするが、
おそらく多くの場合、その言葉はその後も
自分の「初期条件」としてそこから自由になることが難しくなる。
しかし、その呪縛から逃れることができないわけではないはずである。
呪縛から逃れられないと思っているのは、
上記引用にもあるように、その「呪(しゅ)」から自由になることで、
自分の「ライフスタイル」を変えなければならないことをおそれているところは大きい。

「このライフスタイルでは生きていけないというような経験」を
幸いに?することができた場合には、
ある程度、否応なく自分を「初期条件」を解き放たざるをえないのだけれど、
いつまでも過去の亡霊のようになっている「初期条件」を「原因」として
今の自分を規定しているというのは、
考えてみれば、それほど情けないことはないといえるかもしれない。

さて、この「ライフタイル」を変えるという発想を
ユング的なアニマ、アニムスにあてはめて展開させてみるのも
実践的なベクトル・シフトをより可能にさせてくれるかもしれない。

アニマは男性のなかの理性の女性像、アニムスは女性のなかの理想の男性像だが、
アニマには「生物学的段階」「ロマンチックな段階」「霊的な段階」「叡智の段階」があり、
アニムスにも「力」「行為」「言葉」「意味」の段階があるという。
もちろん、これを単純な「段階」としてとらえることはできないだろうし
(「次」の段階が強く働いているからといって
それまでの段階から自由になっているわけではない)
おそらくは男性にも内的にアニムス的なものはあるだろうし、
女性にも内的にアニマ的なものはあると理解したほうがいい。
これは、内的な生きた曼荼羅としてはたらいている
ある意味「ライフスタイル」のようにイメージできる。

典型的にいえば、
男性は、女性の「性的なもの」にひかれたり、「母的なもの」にひかれたり、
はたまた「聖女」的なものにひかれたりする。
また、女性は、男性の「力強さ」や「行動力」にあこがれたり、
そういう「段階」を超えて「知性」にあこがれたりもする。
そうすることで、たとえば、自分が異性に投影していたイメージと
現実の人物とのギャップに失望して、結婚から離婚へと向かうことも多いように見える。
小さい頃虐待を受けていた人が、暴力的な人に惹かれてしまうということもあるようである。

そういう傾向性というのは、
おそらくなんらかの過去(みずからの魂の連綿とした過去も含め)のなんらかの「原因」を
「初期条件」として否応なくとらえてしまうことからでてくるものなのだろう。
そういう傾向性から自由になるということは、
それまで自分が経験してこなかったなにかに直面せざるをえないために
そこにさまざまな「不安」や「恐れ」が生まれてしまうということでもある。
そして、人は「変わることができない」ということになる。
そしてその「理由」を見つけることほどたやすいことはない。
しかし、人は「変わることができる」。
そのためには、自分の向かう「理想」以外の「理由」から自由になることが必要である。