風のトポスノート743
使われなかった人生・そうではなかったかもしれない世界
2010.4.16

 

 

村上春樹の『1Q84』の3巻目が今日発売される。
それは、「こうであったかもしれない世界」の物語である。

パラレル・ワールドの話はいわゆるSFではよくある話ではあるが、
それを今の自分にあてはめてみると
「こうであったかもしれない世界」はときに胸にぐっと迫ってくることもある。
「このときもし自分がこうしていれば今はきっとこうだろう」というものなど。

沢木耕太郎の映画評に『世界は「使われなかった人生」であふれてる』というのがあるが、
これはそれとはおそらく微妙に視点が違っているように思う。
もちろん「使われなかった人生」だから、使っていれば・・・というのはあるけれど、
それはパラレル・ワールド的な部分もありながら
今ここに「使われなかった人生」もちゃんと持っているということもあり得る。

今ここにいる自分のなかに、パラレル・ワールドもふくめ
すべて存在しているのではないかということをときに思ったりもすることがある。
ある意味で直線的にこれしかないと限定してとらえている自分という存在は
ほんとうは同時にあらゆる可能性のポテンシャルとして存在しつづけていて
直線的な時間性ではないぼくがそこにいる・・・ということ。

「使われなかった」ということは、その「使われなかった」ものは
いまも使われずにちゃんとここにあるということである。
そしてそれをちゃんと持っているということに気づくことさえできれば、
それを使ってみるというチャンスもまたあるということなのだ。

ドイツ語で教育を意味するErziehungというのが引き出すことを意味しているように、
自分のなかには引き出されずにいるものがちゃんと「使われ」ずにあって
それをどのように引き出すかということが教育であり、
それを自分で自らに働きかけることを自己教育というのだろう。
そして自分のなかに引き出されるもの、使われずにあるものがないとしたら
あらゆる可能性から閉ざされているということでもある。

だから人にはあらゆる可能性がある。
今は使われずにいるとしても
今使っているものだけが自分ではない。
「こうであったかもしれない」というのはどこかでネガティブな感じがするけれど、
そうではなく、今は顕在化することができていないかもしれないけれど
使っていないものに気づいてそれを使えるようにする可能性を思えば、
別にポジティブとかいうことさえ言う必要もなく、
自分という存在をある種、肯定することができるように思うのだ。

だから、別にしたくもないことについて
あえて使っていないものを引き出して使う必要はないけれど、
そしてそのことに自分で責任を負えるならば何の問題もないだろうが、
できないことをできないままで放置する仕方というのは好きになれなかったりする。
やろうとしてもできないことが多いのは事実なのだろうが、
できるかできないかが問題なのではなく
自分のなかにその種を見つけてそれを育てようとするということ。

ぼくにはなぜかそのことについてどこか強いこだわりがあるような気がする。
たぶん、使われていないということは使おうとしていないだけで
使えないのではないのだということを自分に言い聞かせているだけなのかもしれないけれど。

しかしときに人は、簡単に使えるものさえ
自分の中から引き出すことを拒んでしまうものだ。
ぼくのなかにもそういうところがないとは決していえない。
ひょっとして、ぼくの底にある「悲」というものも
そのこととどこかで通底しているのかもしれない。
自分で自分に深いところで言い聞かせている「禁じ手」のようなもの。

ある意味で、「生」というのは禁じ手のようなものだ。
自分で自分に、これはしていいけれどこれはしてはいけない、
と言い聞かせることでぼくがぼくとして存在しているような。
こうして宇宙が存在しているということも同じ。
でなければ「存在」が分かれてあるということそのものが成り立たなくなるような。

「慈悲」というものも、
そうした悲しみを前にして
自分で自分を抱きしめるように
世界を抱きしめようとすることなのかもしれない。
「使われなかった人生」を、
そして、「こうであったかもしれない世界」を抱きしめるように。