人には、直そうとしている「わるいこと」と、
実は直そうとしていない「わるいこと」があります。
ものすごくよく遅刻をする人にとって、
遅刻は、直そうとしていない「わるいこと」です。
ぼくにも、たくさんの「わるいこと」がありまして、
人の顔や名前を憶えられないというのは、
不都合もあるし、失礼でもあるし、
「わるいこと」に決まっているんです。
もう、半世紀も、直っていません。
こころから直そうとしたら、直ると思うんですよ。
でも直してないというのは、
なんか重要なことじゃないと、
本心では思っているんじゃないでしょうか。
言い訳はいくらでもできますが、
おそらくそういうことでしょう。
(・・・)
厚顔ぶりを詰られるかもしれないですが、
ぼくは、図々しくも「人の顔と名前を憶えられない」のを
まだ直す気がないみたいです。
たぶん、遅刻で有名な人の遅刻も、
好色でならした人の助平ぶりも、
本心では直すつもりがないんでしょう。
命に関わることになれば、必ず直しちゃうと思いますよ。
(ほぼ日2010.4.16「今日のダーリン」より)
人を変えようとするよりも自分を変えることだ、
というのは正論だと思う。
人を変えようとか思うのはある種傲慢なことだし、
自分を変えようとするのは少なくとも傲慢なことではない。
とはいえ、自分を変えるというのはむずかしい。
早い話が、変えるに足るだけの動機に欠けるからだ。
そして自分を変えな言い訳を見つけるのはほんとうに簡単すぎるのだ。
つい上記を引用してしまったのは、
ぼくも人の顔や名前を覚えられないからだ。
学校でもクラス全員の名前と顔が覚えられなかった。
だから名前の記載されたなにかを配る必要があるときにさえ
三分の一くらいは、配ることができずにいた。
そんな性格は仕事をしていても続いていて、
得意先の人の顔と名前がどうしても一致しないのは日常茶飯事である。
とはいえ、自分勝手なもので、切実な場合(つまり本当に困る場合)は
なんとか覚えることができていたりもする。
表向きは「わるいこと」「失礼なこと」だと思っていても、
たぶん、心の底ではそうは思っていないのだろう。
だから直そうとなんかしない。
だから、ぼくがだれかの「わるいこと」を直したいと思って、
「遅刻なんかしないように」と言ったところで
自分で切実に直そうとしないかぎり態度は変わらない。
実はこの4月に、職場の同じ部署に
会社で少し偉い立場の人がやってきてデスクを置くことになった。
それをきっかけに、これまでぼくが何度も遅刻をしないようにと指導していた人が
なにもいわないにも関わらず、ここ数週間だれも遅刻をしなくなった。
(いつまで続くかはわからないけれど)
人が変わることが、少なからずできるのは、
そのように、自分の内なる声が自分に鞭を与えることによってなのだ。
もちろん、鞭ではなく、楽しい飴でもかまわない。
楽しいことをするときには、朝寝坊でも早起きをするようになる。
変わる必要があるとはわかっていても変わらないのは、
そのように切実な内的要請がないからなのだろう。
まあ、人の振り見て我が振り直せ、のように
ぼくにもさきの人の名前を覚えないようなことがあるように
ご都合主義の性格をそのままにしているところがあるけれど、
いちど、その基準を見直してみることにしたい。
たぶん、人の名前を覚えるとかいうのは、変えないほうに入るだろうけど、
少なくとも人に迷惑をかけそうなところがあれば、
自分に鞭をくれてやるのもいいかもしれない。 |