風のトポスノート741
正弦曲線
2010.3.27

 

 

   サイン、コサイン、タンジェント。この秘密の言葉で始動する波のうねりは、
  なんだかんだ言って幅が限られている。プラスとマイナスが交互にやってきた
  としても極端には崩れず、振幅が決まっているから、思い切った行動には向か
  ない。しかし、フィールドの限定が、結果的にーー目的が先にあるのではない
  ーー均衡を生み出すための、大切な要素になっている。
   日々を生きるとは、体内のどこかに埋め込まれたオシロスコープで、つねに
  この波形を調べることではないだろうか。なにをやっても一定の振幅で収まっ
  てしまうのをふがいなく思わず、むしろその窮屈さに可能性を見いだし、夢想
  をゆだねてみること。正弦曲線とは、つまり、優雅な袋小路なのだ。
  (堀江敏幸『正弦曲線』中央公論新社 2009.9.10.発行/P.6-7)

数学というのが精神衛生上とてもいいのは、
この三角関数が直角三角形の辺の関係のなかの世界であるように、
ある限られた世界のなかに無限が見出されるからだ。
ほかのわけのわからない「世界」に放り出されて途方にくれるよりも、
ここに世界の無限があるんだと思えるということはこの上なく安心できる。

どちらかというとそんな世界に安らっていたいというのが
小さい頃の、いやおそらくは今でも本音のところでもあるのだけれど、
そうとばかりは言っていられないのがこの世の苦しみではある。
なにせ、切れば血がでるし痛みも生じ、お腹が空き、眠くなる。

できればそういうわけのわからなさも
三角関数のような関係性のなかで理解できれば、
ということもずっと思い続けているのだけれど、
単純な数式で表現できるほどこの世は甘くない。

とはいえ、オシロスコープでさまざまな複雑さも表現されるように、
身体や魂や精神も、その複雑さはとほうもないとはいえ、
なんらかの表現や理解もできるだろうという思いはずっともっている。
シュタイナーの神秘学の痛快さとでもいえるものがあるとすれば、
そこになにがしか近づける道を示唆してくれているというところにもあるだろうか。

ところで、話は飛ぶように見えるかもしれないが、
哲学者のドゥルーズについての面白い本を見つけた。

ピーター・ホルワード『ドゥルーズと創造の哲学』(青土社2010.3.3.発行)

ちょっと知的ぶった学者やそれに類する人には
ドゥルーズというとある種の必須アイテムのようになっていて
(ベンヤミンやアドルノ、フーコーやデリダなども同様)
その点が、ある種、敬遠がちにもなるところがあるのだけれど、
ある世界観につながるものとしてとらえたドゥルーズについての
思いきったとらえ方がとても面白かった。

それはドゥルーズが「存在とは創造性である」という前提から
その哲学的営為ができているというものである。
存在と創造とが等値であり、しかも存在が一義的であるという。
つまり、いってしまえば、一滴の水滴があったとしても
それは単一の「海」に属しているということでもある。
スピノザの汎神論とも通底してるように
「いかなるものも神なしには在りえずまた考えられず、一切は神のうちに在る」か
それともそこで「神」をなくして、それを無限の創造的な「一」なる存在として
とらえるかということになるだろう。
そしてそこにおいてあらゆる創造の様態がある。

   創造性とはそこにありうる全てを創造することである。存在の個体的切子面
  は、きわめて多くの識別可能な行為としえて、差異化されている。どんな生物
  学的または社会配置も一つの創造であり、またどんな感覚、陳述ないし概念も、
  一つの創造である。これらはどれもその権利上、直接的に創造行為であり、た
  んにそれらと他の事物との相互作用を理由として存在するのではない。創造さ
  れた事物の間に存在ないし生起するかもしれないたんなる相対的差異は、より
  深く、より原理的な、差異化するという想像力に由来する。「差異化とは決し
  て否定ではなく創造であり、差異は決して否定的ではなく本質的に肯定的かつ
  創造的である」。
   いかなる所与の活動も、「それが創造するものとその創造の様態によって」
  のみ、われわれに納得されうるとドゥルーズは言う。この原理こそドゥルーズ
  が、絵画的制作行為(線と色彩の創造)や発話行為(意味の創造)、あるいは
  哲学(概念の創造)と同様、生命の活動(生命の創造様式)や存在の活動(存
  在の創造)に、適用するだろうものである。いずれの場合も、「真理は達成さ
  れたり、形成されたり、複製されたりするのではなく、創造されねばならない。
  <新たなこと>の創造以外に真理は存在しない」。いずれの場合も、問われて
  いる活動とはまさにーー一つの実在や状態であるよりはむしろ、力動的な活動
  ないし過程である。そしていずれの場合も、最も大切なのはつねに、創造され
  たもの(被造物)より、むしろ創造するということである。(P.11-12)

すべてが三角関数であるとするならば、
その三角関数においてなされるすべての表現が創造であるということになる。
それがいくら窮屈に見えようとも「優雅な袋小路」として
そこにおいて「力動的な活動ないし過程」を歩まねばならない。
それを日々生きることにほかならないのだから。

そこで重要なのは、まさにそれを「一つの実在や状態」として
固定的な結果としてスタティックにとらえることで
安心立命するかそれとも絶望して虚無になるかというとではなくて、
「力動的な活動ないし過程」としてとらえるということだろう。

そこにある山も緑も川もそして人も、
それを「一つの実在や状態」としてとらえることで
それらはただのアーカイブになってしまう。
「花は紅 柳は緑」はアーカイブではなく、
それらそのものがつねに創造そのものでもあるということに
気づくことが重要になる。

とはいえ、そう「言う」ことですべては固定化される。
いま、ここで創造されていることは、いま、ここ以降で
創造されるということはまったく保障されているわけではない。
常に刹那滅であり不断の創造であるのだから前後裁断された状態にある。
オシロスコープもそれをスタティックな画像としたときにそれは死ぬ。
そしてさらにいえば、電源を切るだけですべては滅してしまう。