風のトポスノート739
意味に餓える社会
2010.3.25

 

 

   いま、世界が病気にかかっているとしたら、それは「意味」が失われて いるからだ。
  いま、世界が再生しようとしているなら、それは新たな獲得の方法によっ て「意味」
  の意味が捜し求められているからだ。
   ドイツ語の「意味」(Sinn)はもともとは「旅する」とか「進路をと る」という古
  語だった。だとすると、まさに「新たな方向を示す意味」が、いま見失わ れたままな
  のだ。
   これを「ヴィジョンの喪失」だと思ってはいけない。ヴィジョンはさま ざまな「思
  考」のフィギュアやプロフィールを組み合わせなければ、まず生まれな い。その思考
  は何によって支えられるかといえば、時間の旅をしてきた「意味」によっ て支えられ
  てきた。その意味は民族や風土や歴史といっしょくたに育ってきたものだ。
   ところがそれが、いつのまにか消されたか、何かによって取り替えられ たか、どん
  どん忘れられたか、軽々しく扱われるようになった。意味で「価値」を示 せなくなっ
  ていた。
   企業も学校も国家も共同体も家族も、気がついてみると「組織化された 無知」のフ
  リをするようになったのだ。あるいはグローバリズムがもたらしたギョー カイ用語だ
  けで価値の説明をすますようになったのだ。
   これは「組織化された無責任」と言ってもいい(ベック:1347夜参 照)。ノル
  ベルト・ボルツはそのことをまとめて「意味社会の喪失」あるいは「意味 に餓える社
  会」と名付けた。
   この意味喪失社会では、それなら意味に代わって何が浮上しているのか というと、
  それが「リスク社会」(ベック)や「スポーツ社会」(ナイトハルト)や 「体験社会」
  (シュルツェ)なのである。
  (松岡正剛・千夜千冊 連環編 1351夜 2010.3.12
   ノルベルト・ボルツ『意味に餓える社会』より)

世界に「意味」があるのか、というふうに問いかけてみる。

その両極として、「世界には意味がない」という答えと
「世界は意味に満ちている」という答えがあるだろう。

もっとも「意味」という言葉が何を意味しているかによって
その両極そのものがさまざまであることは確かなのだが、
それはとりあえず置いておくこととして、
その「意味」があるかどうか、ということは
「偶然」ということと深く関係しているように思う。

すべては偶然であり、世界はその積み重ねであるとするか、
偶然は認識の欠如であり、世界はあるべくしてあることの積み重ねであるとするか。
あるべくしてあるとはいえ、それは外的に必然として規定されているというの ではなく、
自分をも含めた世界への関与の連鎖がアウトプットされるということだが。

世界は無意味であるとする極北として
みずからを消し去ってしまおうとすることもあるだろうが、
考えてみれば、それは意味のない世界ということを意味化しているにすぎない。
その際にも、世界は無意味であるという意味で世界を満たそうとするわけで、
いってみれば、それも意味の一元化というふうにとらえることもできるかもしれない。
だから、「世界はお金だ」という意味で世界を満たそうとするならば、
その人にとっては世界はそのように現象する、もしくは現象しているように見 えるだろうし、
「世界は力だ」という意味で世界を満たそうとすれば、またそれも同様である。

上記の引用にあるように、
「意味喪失社会」で「意味」に代わって浮上してくるものとして
「リスク」や「スポーツ」や「体験」を挙げたところで
それらは「意味」に代わることにはならないようにぼくには思える。

だから、「意味」を喪失したから、別のものをもってこようとか、
取り戻そうということでは、「病」の処方箋としては
あまり効果的ではないということなのだろう。

つまり、「意味を喪失したからどうすれば・・・」とか
「意味に飢えているのをどうすれば・・・」とかいう問いかけの仕方は、
ともすれば、とんでもない「意味」の一元化に向かったり、
過去に慣習や因習、風習として満ち満ちていた「意味」に向かったりもするだろう。

良し悪しは別としてとりあえず過去から切れる必要から
世界の無意味さの前にみずからを投げ出してみることは不可欠なプロセスだろうが、
その際の空虚をどのように満たすかということが重要になる。

目のまえの「快・不快」原則を「快」のほうに向けるために、
「快」を導くためのさまざまなもので空虚を満たそうとするのは考えやすい。
「お金さえあれば」というのもとてもわかりやすいだろうし、
「おいしいものを食べたい」というのも同様にわかりやすいし、
そのほかのものもいくらでも羅列できる「意味の一元化」である。

しかし、「世界」をきわめて卑近なところから、
壮大な大宇宙、時空までふくめてとらえようとするならば、
「意味」がある種、神秘学的な世界観のほうに向かわざるをえないように思える。
たとえば、そのひとつの方向性が、ノヴァーリスが
『サイスの弟子たち』で示しているようなものでもある。
そこには、意味の喪失や飢餓ではなく、探究への熱がある。
だから、意味の喪失や飢餓ということの背景には、ただ「怠惰」があるだけの ように思える。
「怠惰」ゆえに、単純化された一元的な「意味」で空虚を満たそうとする。

  「わしは、星を見つめてはその様相や並びぐあいを砂の上に写し取ったものじゃ。
  たえず天空を仰いでは、その澄みぐあいや移りゆくさま、雲や星辰を飽かず観察
  した。ありとあらゆる種類の石や、花や、甲虫を採集し、これをいろいろに並べ
  てみもした。人間や禽獣に観察の目を向け、海辺に座しては貝殻を探しもした。
  われとわが心情と思念にじっと耳を澄ましもした。憧れに誘われるままいったい
  自分がどこへ向かうのか、それもわからずにおったものじゃ。
   さて長じてからは方々をさすらい歩き、異郷の土地や海、初めて見る空、未知
  なる星、名も知らぬ草木禽獣の類、そして人間たちを、とくと眺めもした。また
  洞窟にもぐっては、鉱床や色とりどりの地層を見て、大地の構造がどのように形
  成されているかを観察し、珍しい岩壁画があれば、粘土を押しつけて型をとった。
  さて、そうするうちに、どこへ行っても出会うのは旧知のものばかりで、ただそ
  れらが玄妙に混じりあい、組み合わされているにすぎないことがわかった。そん
  なわけで、しばしばわしの心のなかでは、稀有な事物もおのずから秩序をなした。
  やがて、なにを見ても、それが結合し、遭遇し、集合するさまに注意を払うよう
  になったのじゃ。やがてわしは何もそれのみで見るということをしなくなった。
  ーー五感が知覚したものは、寄り集まっていくつもの大いなる多彩な像となった。
  わしは一挙に聞き、見、触れ、そして考えた。まったく異質のもの同士を組み合
  わせてみるのが楽しみだった。わしが見れば、あるときは星が人間に、またある
  ときは人間が星に、石が動物に、雲が植物になりもした。あれこれの力や現象を
  意のままに操って、しかじかのものはどこでどのようにしたら見出せるのか、あ
  るいは、呼び出すことができるのかを心得た。また、みずから弦をつまびいて音
  色や音の運びを探りもした。」  
  (ノヴァーリス『サイスの弟子たち』より/ノヴァーリス作品集I 筑摩書房)