風のトポスノート738
できない理由
2010.3.12

 

 

  糸井 あのですね、
     ぼく自身の恥ずかしい話なんですけど。
     何回か映画に写る役でお誘いを受けたときに
     ぼくはバカだから、
     「おもしろそうだな」と思って、
     「できるんじゃないか」と思って、
     何度かのこのこ出かけて行ってるんです。
     それで、いっつも、どん底までいっちゃう。
  一同 (笑)
  北村 え? それは、できない?
  糸井 できないんです。
     その「できない」ってことについて、
     ぼくは一生の課題として、
     「いつかできるんじゃないか?」
     と思ってるんです。
     思ってるもんだから、誘われるとまた行く。
     そしてそのつど、
     まっくらやみになって帰ってくる。
  一同 (笑)
  (中略)
  糸井 この話はいろんな人にしてるんですけど、
     いまだに自分最大の謎なんです。
     かみさんなんかは
     「なんで引き受けるの?」って。
  一同 (笑)
  北村 引き受けちゃう(笑)。
  糸井 だって「できたい」んです。
     大好きなんです。
  北村 やりたいと思うんだ。
  糸井 弾けないギターを持って
     バンドに入っちゃってるみたいな状態。
  北村 うん、それはひどい。
  (中略)
  糸井 なにか理由があるんですよ。
     「文章書くのができません」
     っていう人、いっぱいいるじゃないですか。
     そんな人はいるはずがないんですよ。
     文章を書けないなんて人が、いるわけない。
  北村 うんうん。
  糸井 だけど、書けないって言ってる人の文章みると、
     ああ、書けないんだなぁ‥‥って。
  (ほぼ日「キャスティングのよろこびを」
   第3回 糸井重里が役者になれない理由/2010.3.12より)

「できない」には必ず理由がある。

「できない」というのは、そのとおり、能力がないということである。
そして、その「能力がない」は大きく二つにわけることができる。
ひとつは、素質がない、やろうとしてもまずできない場合。
もうひとつは、やればなんとかできる部分があるけれども能力をつくってない場合。
あと、バリエーションとして、
求めている能力があまりに高いので、
かぎられた人にしかできないという場合もある。
だれでもオリンピックで金メダルをとることができないように。
ここでは、そこまでの特殊な能力の場合は外して、
ある程度だれにでもできそうだけれど、どうしてもできない、
という理由について考えてみることにしたい。

まず、現状認識。
自分ができないということがわかっているかどうか。
いちばんまずいのは、だれがみてもできないことが明らかなのに、
自分でできないことを認めることができないという場合がある。
これは能力のなかでももっとも基礎的な部分が欠落しているということになる。
水のなかにいるのに地面の上を歩いている気になっているように。

しかし、むずかしいのは、できる人にしても、
現状認識のないままできてしまう人もいるということである。
なぜオンチでないのか、でもいちおう音をある程度合わせることができるように。
で、オンチなのに、自分の出している音が合っていないことがわからない、
というのは、どうすることもできないところがある。
もちろん、なぜできないのかという理由が
身体的なことを含めた諸条件にあるときには、
その初期条件を修正することができる。
その場合は、その初期条件の理由を探すということがまずは重要になる。

できないという現状が分かっている、ふつうの人の場合は、
できているという状態とできていないという状態との違いを
どれだけ認識できているかということが解決の糸口になる。

たまに、仕事でナレーションなどを録音するときなど、
イントネーションをこんなふうに直してください、といっても
どうしても直すことのできない人がいる。
自分でもどこかおかしいなとわかってはいるんだけれども、
どうしてもある種のイントネーションの型以外の話し方ができない。

そのように、できないことがわかっているけれどもできない場合の一つが、
自分の能力をある型のなかでイン・プリンティングしてしまっているときがある。
この場合は、最初に見た動くものがお母さんなので、
それはお母さんではないということがなんとかわかったとしても、
どうしてもお母さんから離れることができないわけである。
そして、お母さんから離れるためには、それなりの長いプロセスが必要になる。

おそらく、ものの考え方も、また言語をはじめとしたさまざまなスキルは
生まれたときに「タブラ・ラサ」、真っ白ではなくて、
ある種の条件をもって生まれてくるというのが実情だろうと思う。
この能力は育てやすいけれど、あの能力はむずかしい、というように。

だから、なにかを学ぶために、
たとえば日本では「型」の習得を最優先する場合が多いのは、
とにかく、最初の諸条件の部分をできるだけ邪魔させないように、
必要な「型」の部分をとにかく刷り込んでしまおう、ということなのだろう。
そして、しっかり「型」を刷り込むことができたら、
こんどはその「型」にとらわれない方向に向かい、
さらに、そのとらわれないことにもとらわれない方向をめざす。
それを表現しているのが、守ー破ー離というプロセスである。