風のトポスノート737
苦手な「オペラ」の受容について
2010.3.9

 

 

   オペラの基本性格が規定されたのはバロック時代である。バロック時代の
  宮廷文化にルーツをもつ幾つかの文化史的前提を知らずして、オペラになじ
  むことは難しい。もし読者の周囲にどうにもオペラと相性の悪い人がいると
  しよう。おそらくその人は、オペラというよりまず、オペラが前提としてい
  る文化史的な諸条件と体質があわないのだろう。それはつまり華美(それも
  桁外れの)を肯定する体質である。この派手好みの気質の点でオペラは、同
  じ「クラシック音楽」でありながら、交響曲に代表される近代の演奏会音楽
  (器楽音楽)の対極にある。
  (・・・)
   十九世紀に入って市民階級の勃興とともに演奏会制度が確立されて初めて、
  器楽音楽は現代の我々が考えるような一級の音楽ジャンルと見なされるよう
  になったのである。そして交響曲や弦楽四重奏曲やピアノ・ソナタといった
  演奏会音楽は、この「市民社会体質」とでも言うべきものと不可分に結びつ
  いている。つまりその担い手であった近代市民の気質を反映してか、演奏会
  音楽(とりわけドイツ=オーストリア圏のそれ)では「派手」は否定されて、
  「無駄のなさ」や「内面性」が尊ばれる傾向にあるのである。(・・・)
   しかし演奏会音楽とは違って、オペラにおいては華美は欠点ではない。演
  奏会音楽の世界では派手すぎる作品がえてして白眼視されるのとは対照的に、
  「地味な」オペラなど一顧だにされない。オペラはどれだけ派手でも派手す
  ぎるということはない。演奏会音楽では「負」の価値が、オペラでは「正」
  になるのである。そして万事派手を好むこのオペラ体質の根底にあるのが、
  第一に浪費性、第二に儀礼性、第三に予定調和性である。こうした近代市民
  社会においては否定されがちな気質に共鳴することなしには、オペラに順応
  することは難しいだろう。
  (岡田暁生『オペラの運命』中公新書2001.4.25.発行/P.21-23)

ここ数年、「嫌い」「敬遠」「無関心」のままになっていたものを
自分のなかになんらかのかたちで受容できればと思ってきた。
そのひとつがオペラである。

オペラはどちらかというと、「嫌い」の部類に属しているが、
その理由を意識化することは比較的少なかったが、
この引用に明確に示されているように「浪費性」「儀礼性」「予定調和性」と
それに類してでてくるような特性にその理由があることがようやくわかりはじめた。

つまりは、オペラが嫌いというよりも、
「オペラが前提としている文化史的な諸条件」と「体質があわない」以前に、
あうとかあわない以前の、「理解」が欠けていたわけである。
「嫌い」でもなにがしかの「理解」は可能である。
そもそも劇場でオペラを見たことがないのはもちろんのこと、
DVD映像やCDでもオペラになにがしかの時間付き合ったことがあまりに少ない。
ちゃんと全編を見たことがあったのは、モーツアルトの『魔笛』くらいだろうか。
(これは、実際、けっこう楽しめたのである・・・が、オペラとして見ていなかった)
「嫌い」という資格などなかったわけである。

しかし、多くの場合、「嫌い」というのは、
「知らない」ということを認めたくない、
もしくは「知る」ことさえしたくない、ということである場合が多い。
「わからない」「理解できない」ということにしても、同様だろう。
そして、人は数多くのものに近づくことなく、
近づかない理由として「嫌い」「わからない」という看板を掲げて通り過ぎていく。
もったいないことである。

もちろん、好き嫌いというのはある。
嫌いなものをなんでもいいから好きになるということはできない。
嫌いなものは嫌いなものでいいから、そこに理解を持ち込むことで、
そしてたんに「嫌いなもの」というレッテルを貼るのではなく、
なぜ嫌いなのかを自分に納得させる作業というのは
おそらく人をそれなりに豊かにしてくれるのではないだろうか。

著書の岡田暁生さんの筆力も大きいのだろうが、
正直いって、『オペラの運命』でオペラのもっている
なにがしかの「文化史的な諸条件」がわかっただけで、
ずいぶんオペラのイメージが変わってきた。
もちろんそれで「浪費性」「儀礼性」「予定調和性」というのは
好きになるわけでもないのだけれど、
そのおかげで、このところオペラをDVDやCDではあるけれど、
いろいろ物色しながら鑑賞してみるようになった。
その点、オペラの世界への案内役というのは重要で、
少し前に、島田雅彦のオペラ案内を読んだときには、
どうしても実際にどんどん鑑賞しようという気にはどうしてもなれなかった。
おそらくぼくにとっては、
「オペラが前提としている文化史的な諸条件」を
きちんと理解しておくことが、キーになっていたからなのだろう。

音楽にしても、ある種の解説を読んだだけで腑に落ちて
それ以降よく聴くようになったものというのはずいぶんある。
『オペラの運命』と同じ中公新書で、
そこそこ話題になったらしい『音楽の聴き方』でも、
音楽を語る言葉についてふれられていたが、
やはり、人には、「理解」へのベクトルを準備する「言葉」というのが
なにがしか必要だということなのだろう。

そのためにも、好きー嫌いや快ー不快を先にもってくるのではなく、
最初にそういうものが自分にフィルターをかけているとしても、
そのフィルターがかかっていることをまずは自分で意識することで、
そこに「理解」というベクトルを導入する余地がでてくるのではないだろうか。
もちろん、そうしたプロセスを意識化するに至るまでには、
おそらくは数多くの馬鹿げた「嫌い」で自らの可能性をスポイルすることを
繰り返すことも避けられないだろうが、これも悪人正機のようなもので、
たんに「好き」を超えた可能性もそこに開かれるところもあるのかもしれない。