風のトポスノート736
高きにも低きにも溺れずにいること
2010.3.8

 

 

  J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調
  (Osanna,Benedictus,Agnus Dei,Donna nobis Pacem)
  第4曲
  Agnus Dei,qui tollis peccata mundi,
  miserere nobis.
  世の罪を除かれる神の子羊よ
  私たちを憐れんでください。

  唯一、変記号(♭)の調性を持ち、音を下げる役割をするフラットを
  用いることで、キリストがこの世に降りてきたことを表す。歌い出し
  のフレーズも1オクターブを下降する音型。

  (『高知バッハカンタータフェライン第13回演奏会』プログラムより
   2010年3月8日 高知文化プラザ かるぽーと大ホール)

Agnus Deiのアルト独唱。
リヒター指揮、ミュンヘンバッハ管弦楽団ではヘルタ・テッパー、
「高知バッハカンタータフェライン」では、小原伸枝さんが独唱。
「下降」ということを深く印象づける素晴らしい演奏だった。
やはり、この独唱にはカウンターテナーの天上的な透明感はふさわしくない。

「高さ」を求めるということは、
「低さ」をあえて求めることでもなければならないのではないだろうか。
高ければ高いほどに、それとは逆に低く下降していかなければならない。
「低さ」だけに沈み込んでしまうわけにはいかないけれど、
「高さ」だけを求めることで欠損してしまう何かのことを
なおざりにするわけにはいかない。

また、シュタイナーが、手先の不器用な哲学者はありえない、
というようなことを示唆していたように、
考えるということは同時に
それが地上的身体的でなければならないということも同様である。
日常的な生活のなかでの地上的身体的なものの欠如した者がなし得る思索は
その意味では、根のない草、糸のない凧のようなものだろう。

善人なおもて往生を遂ぐましてや悪人をや、
というのも、そのようにとらえてみるならば、
悪人としての自覚を持ち得るとしたならば、
悪そのものが自覚を通じてその逆のものが目覚め
「往生」につながることにもなりえるのである。
氷山の下にいることを自覚する者は、むしろ氷山の頂点にもいることになる。
さらにいえば、自覚なき善人は「往生」が難しくなるともいえるかもしれない。
それは、自らを低きにおきえないがゆえに、
基礎のない建物のごとく、その建物が小さな地震にも容易く倒壊してしまう。
氷山の水面下を知らぬがゆえに、自らが何者かを自覚することができない。

昨今、ニューエイジ風の「アセンション」とかいうことが
たびたび言挙げされたりもするが、
「アセンション」ということは、同時に、
地球の最深部への下降を伴っていることを忘れてはならないように思う。
イカロスが太陽に向かって飛んで蝋の羽を溶かしてしまうように、
上へ上へとばかり上昇したい者は、その実、
墜落そのものをめざしていることを知らない。

このことはさまざまなところでの比喩として考えてみることもできる。
多くのお金を持ち得るということは
その逆のお金の乏しい人に対する負債を抱えている、
というふうにとらえることができる。
健康や美しさなどに恵まれているということは、
その逆の人に対する自らの内なる影に自覚的でなければならない。
そうでない場合、みずからの影が自らを常に脅かし続けることになる。

弦は張り詰めすぎていても撓みすぎていても美しい音色にならないように、
すべては「中」のおいて両極を自覚的に統合していく必要がある。
さらにいえば、単に、ちょうどいいくらいに
弦を張るようにする技術を身につけることもできるだろうが、
二つの両極をも身をもって知ることもまた
ある意味では、必要なことなのかもしれない。
そうでなければ、弦が緩んでいる音も
弦が張り詰めたときに生じる音も聞くことが難しくなる。

「世の罪」を除くということは、
みずからが「世」にくだるということでもあるのだろう。
そしてそこでの「誘惑」に勝ち、自らを十字架に架け、
そして死の後に地下へ赴く。
そうしてはじめて、下った分だけの「高み」へと
自らを上昇させることができる。

私たちは、さまざまな「高さ」と「低さ」の誘惑に晒されている。
みずからの「高さ」を誇り、みずからの「低さ」に投げやりになる。
それらはともに溺れているにすぎない。
「高き」においても、「低き」においても、
溺れずにそこでしっかりと泳ぐことができるようになること。
そうすることさえできれば、なにも怖がることはない。
死の恐怖も生への耽溺も、また死への陶酔も生への怯えも無関係になる。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」にあるがそれをさらにすすめて
「ミンナニデキノボートヨバレ」ようがそうでなかろうが
「ホメラレモセズ」「クニモサレズ」いようがいまいが
どちらにも溺れないような
「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」。