風のトポスノート735
「ん」
2010.3.3

 

 

   東京メトロ東西線で日本橋に行くと、空色のラインが一本引かれた駅名
  「日本橋」の看板に、ローマ字で「Nihombashi」とあるのが目に入った。
  なにかの間違いではないかと思ってホームを歩くと、どの看板にもローマ
  字で同じく「Nihombashi」と記されている。
   「日本」はローマ字で「Nihon」と書かれるはずである。それが「Nihom」
  と記されているのだ。
  (中略)
   日本橋駅の窓口に行って「にほん」がなぜ「Nihom」と書かれるのかと
  質問すると、東京メトロの広報部の方が、欧米の方から、「Nihombashi」
  と書くのは表記の慣例として間違っていると指摘されたからだと仰った。
  (山口謡司『ん』新潮新書 2010.2.20.発行/P.3-4)

ぼくにも似た経験があって、
新聞社に行ったとき、新聞社を表示するサインに
「Shinbun」ではなく「Shimbun」と書かれてあったのに気づき、
どうしてだろうと疑問に思ったことがある。
そのときにも、慣例でそうなっているという答えしか得られず、
疑問は宙吊りになったままそれ以上調べてみることもなかった。

なぜそうなるのかというと、本書によれば、
上記の引用に、欧米での表記の慣例ということがあるが、
原則として、子音の「m」「b」「p」が書かれる場合、
ふつう「n」がその直前に現れず「m」と表記されるということらしい。
「m」についていえば、Communication,Command、
「b」についていえば、Combat,Combination、
「p」についていえば、Competion,Companion、
といった例が挙げられる。
だから次に「m」「b」「p」がこなければ、「n」と表記されるということになる。
たとえば、Cnoncentorate,Contactといったように。

日本語でのローマ字表記でも、
「あんぱん」は「Ampan」、「がんもどき」は「Gammodoki」、
「しんぶん」は「Shimbun」と表記されるわけである。
こういった表記の慣例ということでいえば、
日本語でも、「こんにちわ」という「音」が「こんにちは」、
「わたしわ」という「音」が「わたしは」と表記されるようなものだろうか。

ところで、これでだけで『ん』についての本が一冊になるわけもなく、
本書では、日本語表記における「ん」の謎についてとても興味深いことが書か れている。
たとえば、『古事記』には「ん」という表記がないらしい。
とはいえ、「ん」という音そのものがなかったということでもないらしく、
日本語で濁音が表記されずにいたりもするように、
また「ん」が五十音の枠外に置かれているように、
「ん」という「音」がなかったというよりは、
「ん」という表記に関してさまざまな歴史的経緯があったようであり、
それについては、本書にとても興味深く書かれてある。

もちろん、歴史的経緯というだけではなく、
おそらく「ん」という音そのものにもなにがしかの秘密があるようであり、
それに関しては、本書は最後にさらりと示唆されてあるくらいなのだが、
ほんとうはそこに興味があったりもするので、その部分を引用紹介しておきたい。

   二人の呼吸がピッタリ合っていることを、「阿吽の呼吸」と言ったり、
  「あのひとたちは阿吽の仲」と言ったりする。人と人との関係を表す言葉
  としては、これ以上の誉め言葉は日本語にはないだろう。
   「阿」とはサンスクリット語では口を開いて最初に出す音であり、「吽」
  は口を閉じて最後に出す音とされる。これは、例えば、神社の入口にある
  一対の狛犬、また寺院の山門にある金剛力士の一対の像は、必ず一方は、
  「ア」の形に口を開き、もう一方は「ン」の形に口を閉じているというも
  のでも見られる。
   しかし、この「阿」と「吽」は、こうした言語の音としてではなく、じ
  つは空海が伝える真言密教では、「阿」が宇宙の始原を、「吽」がその終
  焉を表すという思想を意味するのである。
   第三章で『吽字義』という空海の著作について触れたが、「吽」は、宇
  宙の終焉であると同時に、輪廻して再び生まれ変わって「阿」という始原
  を作り出す「種子」になった状態をも意味する。つまり、「吽」とは、
  「次の生」へと橋渡しをするための大きな役割を担っているのである。
  (P.184-185)