風のトポスノート733
祝福と呪いの振幅
2010.2.2

 

 

   モラルハザードというのは、「マルチ商法」に似ている。
   自分はつねに「騙す側の人間」であり、決して「騙される側の人間」には
  ならないという前提に立てば、マルチ商法は合理的である。騙される側の人
  間が無限に存在するという前提に立てばこの推論は正しい。
   しかし、残念ながら、地球上に人間は無限にはいない。どこかで地球上の
  全員が「騙す側の人間」になるというがマルチ商法が禁忌とされる本来の理
  由である。
  (中略)
   道徳律というのはわかりやすいものである。
   それは世の中が「自分のような人間」ばかりであっても、愉快に暮らして
  いけるような人間になるということに尽くされる。それが自分に祝福を贈る
  ということである。
   世の中が「自分のような人間」ばかりであったらたいへん住みにくくなる
  というタイプの人間は自分自身に呪いをかけているのである。
   この世にはさまざまな種類の呪いがあるけれど、自分で自分にかけた呪い
  は誰にも解除することができない。
  (内田樹『邪悪なものの鎮め方』バジリコ/2010.1.28発行 P.149-150)

世の中が自分のような人間ばかりになっても、
そんなに面白くもなさそうだし、
こうして生まれてきたのは、
自分のような人間でない人間と否応なく対面することで、
自分の限界を突破するためでもあるように思うので、
いろんな人間がいたほうがいいだろうが、
少なくともマルチ商法的なありようを好む人ばかりだと破滅的になる。

つまりは、結局のところ、自分で自分をスポイルする矛盾に行き着くようなことを
避けるようにしようというのが、「道徳律」だということなのだろう。
上記引用にあるように、その点はとても「わかりやすい」。

近視眼的には自分の得になることであるように見えても、
結局は、自分ののっかっている土台を壊してしまうようなものだし、
しかも、自分が自分を「呪」って自分をスポイルするだけではなく、
自分の土台だけではなく、ほかの多くの人の土台も
そのプロセスで壊してしまうことになるわけで、
そのほかのひとの土台をこわしたぶんまでもふくめて
おそらくは「呪い」をひきうけなければならなくなる。
けっこうなリスクである。

「自分で自分にかけた呪いは誰にも解除することができない」。
たしかに、解除キーは自分の手にある。
そのキーは「自分に祝福を贈る」ということ。

しかし、いちどかけた「呪い」を解除するためには、
その「呪い」をかけた範囲が広ければ広いほど
延々とかかわった人たちにかけた「呪い」までもを
解除してまわらなくてはならなくなる。
ほとうもない作業になる。

とはいえ、人の自我というのは、この地上において、
そんなに簡単に「自分に祝福を贈る」だけにはとどまらない。
自分で自分をスポイルせざるをえなくなることもある。
そしてそこで人も道連れにしたくなることもあるだろう。
人は祝福と呪いのあいだでいつも揺れている。
だれも祝福だけの聖人になれはないのだ。

だから(と、ちょっと唐突だけれど)トム・ウェイツとかがいる。
(先日ライブアルバムがでていたし、買いそびれていた「オーファンズ」という
3枚組のアルバムが再発売されたていたことも知って喜んでいるからだが)
トム・ウェイツは、その「オーファンズ」のアルバムのノーツで語っている。

  このレコードの中心は私の声だ。酒をガブ飲みし、足を踏みならし、
  さめざめと鳴き、囁き、嘆き、スキャットし、思わず口走り、激怒し、
  泣きをいい、女を口説く、そのどれも上出来だ。
  私の声は何にでもなれるーー少女、人さらい、電子楽器、爆竹、道化、
  医者、殺人鬼、なんでもござれ。
  粗野にもなれるし、皮肉っぽくも、錯乱状態にもなれる。声自体が楽
  器なのだ。

人は、一人ではない。
自分だけではないというよりも、
自分のなかにさまざまな人がいる。
自分を祝福すると思えば、自分を呪う。
矛盾そのものが人であるといったほうがいい。

しかしその矛盾を外に放り出すよりも、
こうした「孤高の天才詩人」の助けを借りて、
自分のなかでさまざまに語らせることで
その矛盾はやがて大いなる「祝福」にとつながるのではないか。
自分の振幅を小さく安定させるよりも、
大きな振幅のなかで、祝福と呪いの振幅のなかで、
大きく育て、それを楽しむことができるのではないか。
そうすることで「自分のような人間」というときの「自分」が
小さくまとまってしまうことを避けられるのではないか。

自分の感情が小さくまとまってしまいそうなとき
トム・ウェイツの声を聴く。
これは効く。
ちなみに、ジョニー・デップも出演している映画『Dr.パルナサスの鏡』に
トム・ウェイツも出ているというので、ぜひ観てみたいと思っている。
効くかもしれない。