風のトポスノート732
上位と下位の統合
2010.1.31

 

 

  高く高く兜率天にまで至った明恵は、この夢では一匹の黒い犬と随分と
  親しくしている。人格の発展の過程において、高く昇ることと、深く下降
  することは共に必要である。兜率天において弥勒に接することも、地上で
  黒い犬と親しく遊ぶことも、共に重要なことである。
   もし、この黒犬のような夢が明恵の『夢記』にまったく出てこなかった
  ら、筆者としてはおそらく、明恵の自己実現の過程に懐疑の目を向けたで
  あろう。
   高いものも低いものも、白いものも黒いものも、善も悪も、すべてがそ
  の過程には含まれてくるのである。
  (河合隼雄『明恵 夢を生きる』講談社+α文庫 P.353)

イカロスは、肩に蝋で固定された翼で迷宮ラビリントスから脱出するが、
「天高く飛んではならない」という父親の忠告を忘れて高く飛翔したために、
太陽の熱で蝋がとけ、落下して死んでしまう。

その翼は、高みに昇るにはしっかりと自分に結びついてはいないために、
高く飛翔できたと思っても、それは長く続かず、
かえって自らを高みから落下させ、死にさえ至ることになるのである。

そのように、「私」が(もちろん「宇宙」といってもいいが)「個性化」、
全体性、統合性を実現し、いわば「大きな自己」になるためには、
上へ上へ・・・という高次へ昇っていこうとするだけでは、
その一面性ゆえに、「私」をむしろそれまでよりも低いところに
落下させることになる。

明恵が、兜率天において弥勒に接すると同時に、
地上で黒い犬と親しく遊ぶこともともに夢見ることになったのは、
上に上昇する方向性と下へと下降する方向性が
ともに重要であることを自覚していたからだろう。
明恵が、石などを大切にし、島にさえ手紙を書いたりしているのは、
いわゆる悟りがただ天高く昇ることだけだというふうには
決して考えていなかったことにもつながる象徴的なことであるように思える。

たとえば、上へと3つ階段を昇ろうとするならば、
自分の今いるところから下へと3つ階段を下りなければならない。
それが自分を大きな自己へと統合させるための原則であるように思う。
だから、キリスト・イエスは死後、天へと上昇するが、
同時に、地下深くまで下降してくことになる。
この二つは別のものではない。
宗教者に限らず、ある種の上昇を体験する人が陥りやすいのは、
その上昇にともなうだけの下降を自覚していないがために、
その不用意な上昇にみあうだけの自らの闇に
無意識のうちにとらわれてしまうことではないだろうか。

プロセス思考心理学のアーノルド・ミンデルは
おそらくこのことを次のように示唆しているように思う。

   さまざまな下位ベクトルあるいは平行世界は、足し合わせると「大きな
  自己」になるが、それぞれは非常に異なっている。そうした下位ベクトル
  は、あなたの内的な多様性を示している。それぞれの平行世界は相対的に
  独立しているので、日常の自分(実はそれ自体が平行世界である!)に多
  様な下位レベルを統合することには困難が伴う。
   あなたの内面の多様性、内的な各部分や各方向性間の葛藤は、自然の特
  性である。それらをすべて足し合わせると「大きな自己」になる。
   それを数学的な用語で考えてみる。あなたの「大きな自己」が「4」と
  いう数字だとしよう。あなたの方向性の一つ(下位ベクトル)が「ー6」
  ならば、「4」という「大きな自己」のたどりつくためには、「+10」
  という第二の方向性が必要になる「−6」と「+10」は正反対の方向に
  向かっているが、あなたがあなたであるためにはーーあるいは「大きな自
  己」が「4」であるためにはーー両方が必要とされるのだ!(言うまでも
  なく、「4」という「大きな自己」は多様な対極性を包含する。「−3」
  と「+7」、「+68」と「ー64」などでも「4」にたどりつける。
  (中略)
   私たちはプロセスの一部ではなく、プロセス全体を必要としている。私
  たちは一次プロセスだけに執着する。そして、下位ベクトルや夢の世界を
  忘れてしまう。私たちの一次プロセスはたいてい他の世界に対してそのよ
  うに反応する。しかし、あなたの完全な自己ーーあなたの「大きな自己」
  ーーに至るためには、数多くの方向性が必要となる。
  (アーノルド・ミンデル『大地の心理学』コスモス・ライブラリー/P.98)

別に道徳的な意味でいうわけではなく、
みずからをトータルなプロセスとして統合させながら成長させていくためには、
上位ベクトルと下位ベクトルの二つの方向性をできるだけ意識していくことが
イカロスのような墜落につながらないためにもとても大切なことではないかと思う。
それはもちろん、出る杭を打つような他への嫉妬が生むルサンチマンではなく
(そういう態度をとりがちな人は、おそらく自分のシャドーを
そこに無意識的に投影してしまうがゆえにそうしてしまうのだろう。
2チャンネル的な行動様式も同様に)
みずからが安全に「大きな自己」に向けて航海していくための技術である。

とはいえ、安全に安全に、だけを考えていては、
船は港からいつまでたっても出られないことにもなりかねないので、
それなりのリスクを想定もしながら、えいやっ!ということも必要だし、
ときに難破してみることもまたプロセスとしても一興だろうが、
やはり、自分が歩むことのできる「歩幅」については
ある程度自覚しておくことが必要ではないだろうか。
その「歩幅」を次第に大きくしていくのもまたプロセスとして可能なわけで、
30センチしか「歩幅」がないのに、
もしくは1段ずつ昇るしかできないのに、
いきなり1メートルの歩幅で、5段ずつ昇るとかいうことは
そんなに長く続けることができるわけではない。

キリスト・イエスが弟子の足を洗ったのも、
教えることは同時にへりくだることであることを
象徴的に表しているように思える。
しかし、そうしたことを人に対して指摘するなどということは
そのほとんどの場合、自分もそれができていないためのシャドーであったり、
相手のシャドーを刺激するだけだったりもするのであまりしないほうがいい。
できるのは、自分がいかに「下降」することに無意識的であるかを
日常的に点検してみることである。