風のトポスノート731
呪縛から逃れること
2010.1.25

 

 

  「システム抜き」でも人間は適切にふるまうことができるか。ふるまい方を指
  示するマニュアルも教典も存在しない世界でも、人は「人として」ふるまうこ
  とができるか。
   いくたりかの文学者たちは「それは可能だ」と考えた。
   もし、可能だとしたら、そのときには何が人の行動の規矩となるのか。
   ほとんどの人はこれからどうするかを決めるとき、あるいはすでに何かをして
  しまった後にその理由を説明するために、「父」を呼び出す。それは必ずしも
  「父」の指導や保護や弁疏を期待してではない。むしろほとんど場合、「父」の
  抑圧的で教化的な「暴力」によって「私は今あるような人間になった」という説
  明をもたらすものとして「父」は呼び出される。
  「父」の教化によって、あるいは教化の放棄によって、私は今あるような人間に
  なった。そういう話型で私たちのほとんどは自分の現状を説明する。
  (中略)
   だから、論理的に考えれば、「父」の増殖を止めるための言葉は次のようなも
  のになる他ない。
   私が今あるような人間になったことについて私は誰にもその責任を求めない。
   その言葉を発見した人間だけに「父の支配」から逃れるチャンスが訪れる。
  「父の支配」からの「逃れの街」であるような局所的な「秩序のようなもの」は、
  そう誓言した人間たちによってはじめて立ち上がる。
   少なくともカミュやレヴィナスはそう教えている。私は彼らの考えに同意の一
  票を投じる。そして、村上春樹もまた彼らと問題意識を共有しているだと思う。
  (中略)
   『1Q84』は、困難な歴程の果てに、主人公たちが「邪悪で強大な父」とい
  う表象そのものを無効化し、「父」を介在させて自分の「不全」を説明するとい
  う身になじんだ習慣から抜け出して終わる。
  (内田樹『邪悪なものの鎮め方』バジリコ/2010.1.28発行 P.20-23)

「私が今あるような人間になったことについて私は誰にもその責任を求めない」
これは、「父」の増殖を止めるためだけではなく、
「母」の増殖をも止めることにもつながるように思う。

村上春樹の『1Q84』を読んだとき、ぼくは好印象を持たなかったのだけれど、
今になって振り返ると、そのひとつは内田樹の示唆している
次のことと関係しているのかもしれないと思った。

   今回の長編にはかつてない大きな変化が見られた。それは「父」が全面に登場
  してきたことである。
   村上春樹作品に「父」が登場することは少ない(「絶無」と言ってもいいくら
  いである)。

たぶんぼくはその「父」たちの登場を疎ましく感じたのと同時に、
(ぼくにとっては「父の支配」から逃れることはいうまでもないことで、
なんだかそれをひどくわざとらしく感じたようにも思う)
「では、母たちからの自由はどうなるんだ」と無意識に感じたのかもしれない。

しかし、たしかに、私たちの多くは、
さまざまなかたちでの「ふるまい方を指示するマニュアルも教典」に基づいて
ほとんどロボットのように考え、ふるまっている。
だからこその「自由の哲学」なのだけれど、
私たちはそうした「マニュアル」や「教典」の存在しない
「母の支配」をさまざまに受けている。
だからこそ、西欧における「英雄」的なプロセスを必要としたのではなかったか。
私たちは、一度は、そうした大地的なものから切り離される必要があったわけである。

しかしその行きすぎから、西欧は(というか西欧の影響を受けすぎたところでは)、
「母」的なるものの復権がさまざまに行なわれているということもできるのだが、
問題にすべきは、「父」と「母」の両方の支配から
自由になるために次の言葉を使ったほうがいいのではないかと思う。
とくに、日本においては、その部分は決しておろそかにすべきではないだろう。
そのバランスがくずれたとき、人は何らかのかたちで
過去に向かわざるをえなくなるだろうから。

「私が今あるような人間になったことについて私は誰にもその責任を求めない」

呪縛は「父」からだけではなく、「母」からもくる。
上記の言葉を使って言えば、
私は、今あるような人間になったことについて、
「父」のせいにし、「母」のせいにする。
「父」にたよらないから「母」、「母」にたよらないから「父」、
というのでは、どこまでいっても「呪縛」の悪循環になってしまう。
そろそろその悪循環に気づいて、そこからの自由を模索する必要がある。

しかし、「個性化」はそれなりのプロセスを必要とする。
生まれてすぐに放り出されたら生きてはいけないように、
「父」や「母」を最初からまったく必要としないということもできない。
それでも私たちは、それらの「支配」に気づくことはできる。
気づいたからといってそこから自由になることはむずかしいだろうが、
自分を常にその根拠にしようと決意することはできる。
もちろん、今の自分はとほうもなく愚かかもしれないが、
それでも誰かに責任を転嫁した存在の仕方からはどこかで自由になる必要がある。
そうでなければ、情けないではないか・・・と思うのだ。
自分が馬鹿なのは自分が馬鹿なせいであって、ひとが馬鹿なせいではないのだから。