風のトポスノート730
限界論
2010.1.23

 

 

私たちにはさまざまな「制限」や「限界」がある。
それらが否応なく私たちの前に立ちふさがることも多く、
その前で立ち往生し、ときに絶望したりする。
そんな「制限」や「限界」がどうしてなくてはならないのか。
それさえなければどんなに自由かを嘆いたりもする。

「制限」や「限界」をどうしたら克服できるのか。
克服するだけではなく、
それらを積極的、創造的にとらえることができないか。
そうしたことを、道徳論やら教育的訓戒やらではなく、
ある種の「方法」として身につけることができればと思うことが多い。

ちょうど、松岡正剛『連塾・方法日本II』を読んでいて、
示唆的な部分があったのでそれをガイドに、
そこらへんのことについて考えてみることにしたい。

   ちなみに宮城道雄はいくつもの琴を発明もしています。十三弦の琴
  だけではなくて、七十弦、八十弦の琴を発明した。そしてありとあら
  ゆる五線の世界の音楽家たちや、オーケストラともやりあった人でし
  た。最後は不幸にも疾走する列車から落ちて亡くなられたわけですけ
  れども、私はずっと、宮城道雄のこの方法日本というのは何だろうと、
  思っています。宮城道雄のように何かを失って、耳や手を失ってから
  得るものではなくて、元気に「負」をもちだしたいなという気もしま
  す。それには、やはり私たちはいったんあえて「限界」をつくる必要
  があるのではないか。「界を限る」ということが必要なのではないか
  と思います。
  (松岡正剛『連塾・方法日本II/侘び・数寄・余白』春秋社/P.137)

私たちには「〜がない」という状況が数限りなくある。
そしてそれは「〜がある」という「正」に対する「負」の状態である。
その「負」の状態に対してどのように対するか。

「負」を宿命的に受けいれるという態度がある。
もちろん、悲劇的な態度でそれをすることも
またある種の諦念において受けいれることもできる。

また、「負」を「正」にするしようとする、
もしくは「正」ではなくても、それに変わるものを得ようとする態度がある。
その際にも、ある種のルサンチマンで「正」に向かうことも、
また道徳的な意志でもって「正」へと向かうこともできる。
前者は、金がない→金をもうけて見返してやる、的な態度、
後者は、たとえば克服すべく努力するのは義務であるという信念だろうか。

さらにいえば、「負」を受容的にではなく、
自らの内的、外的な要請としてとらえることもできる。
上記の引用にあるような
「いったんあえて「限界」をつくる必要がある」ということである。

「限界をつくる」、つまり「界を限る」ことによって
その「界」がないことによるある種ののっぺらぼうてきな状態を
「分ける」=「分かる」ことができる。
荘子に混沌の話があり、
また老子に美によって醜、善によって善でないものが生じる、といった話がある。
分けなければ、つまり「界」がなければ、混沌は死なないですんだし
無為の聖人のようであることができるが、
善悪の木の実を食べてしまった私たちは、
まず「分かろう」とすること=「分ける」ことを通じてしか
つまり、「界を限る」、「限界をつくる」ことを通じてしか
その「界」のない状態をみずからのものとすることはできない。
しかも、おそらくは、その「界を限」り、その「界」を超えようとする営為は、
最初から混沌のままでいることにくらべ、創造的かつ芸術的ではないだろうか。

聖書に、「タラントンのたとえ」というのがある。
ある人が旅行にでかけるとき、しもべたちを呼んで自分の財産を預けた。
預けられたお金で商売をして儲けた者もいれば、
お金をなくさないように穴を掘って隠しておいた者もいたが、
その後者のしもべを主人は許さない。
「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、
十タラントン持っている者に与えよ。
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、
持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
この役に立たないしもべを外の暗闇に追い出せ。
そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「界を限る」、「分ける」ということは、
自分の持っていたものをそのままにしておくのではなく、
ある種のリスクをともなった営為のもとに創造的な方向に向かうことでもある。
つまり、「界」を積極活用するということ。
そのそも、この地上で生まれ生きていくということは、
「限界」そのものを身につけるということであり、
そのことによって生まれなかったよりも創造的であることのはずである。
たとえ、主人から預けられたタラントンを失って
ときに大きな借金をこしらえてしまうことになるとしても、
なくさないように隠しておくよりもずっと創造的なこと。

そういう意味で、
みずからにあえて「界」を「限る」ことによって
そうしなかったときには「無」であったものを「有」に変えることは
芸術的かつ創造的なことである。
そしてそれは「自由」そのものの営為でもあるように思う。
「戒律」的なことにしても、それを消極的にとらえるのではなく、
「界を限る」ための「方法」としてとらえることで
はじめてその意味を理解することができるのだろう。
もちろん、外から与えられる類の「戒」ではなく、
自らの自由によって身につける「戒」である必要があるのだろうが。