風のトポスノート729
何かを得るためには何かを失わねばならない
2010.1.21

 

 

仏教でいう「四苦八苦」(四苦は生老病死)のなかには、
求不得苦という求めるものが得られない苦しみというのがあるが、
ほしいものが手に入らないというのは、物欲だけではなく、
色欲や名声・権勢欲などありとあらゆるものがあって、
その程度は別としても、それなりに私たちを苦しめている。

欲しくても手に入らないとしても比較的簡単に「仕方ないか」と
あきらめられるようなものであれば「苦」というほどのものではないけれど、
それを得られないために四六時中そのことばかりを考えて
悶々としているようだと、まさに求不得苦といえるだろう。

別に、戒律までこしらえて禁欲的になりすぎる必要もないとは思うけれど、
「足るを知る」という言葉もあるように、
それが自分にふさわしいものかどうかということに対して
ある程度の自己制御の能力は自我の働きとして不可欠なところがある。

「足るを知る」というと、なにか教育的な響きもあるけれど、
そのことを自分の魂の成長のバランスとしてとらえてみると面白い。
ユング心理学で、コンステレーション(星座/布置)という、
個人の内的世界と外的世界の在りようが、共時的にある特定の配置をもって
現われててくることを表現する用語があるが、
何かを得ようとして、それを得られたり得られなかったりするときの
コンステレーション・バランス(という言い方も少し変だけど)について
私たちはできるだけ意識的であったほうがいいように思う。

クサイいい方でいえば、何かを得ようとするときに
それが今の自分にとってふさわしいものであるかどうかということでもある。
もちろん、単に、スタティックな意味でのバランスだけではなく、
自分の魂をダイナミックに変化・変容・成長させるために
それを得ることがどういう意味をもっているのかということが重要である。

河合隼雄さんの明恵についての著書に、
「何かを得るためには何かを失わねばならない」という
とても示唆的なことが書かれてあるが、
得るということは失うということでもあるということを
常に心に銘記しておくことなくして、
ひたすら「得ること」に向かって突っ走るだけだと
そのゴールに着いた途端にへたばってしまうどころか、
そこからどこにいったらいいのかわからなくなってしまいかねないところがある。
得ることは失うことではないと思いがちだが、
得ることと失うこととはある意味セットで考えなければならない。

   何かを得るためには何かを失わねばならない。何かを失うことは、実は
  他のものを手に入れる前提なのだ、というのは夢に生じてくる大切なテー
  マのひとつであるが、明恵もそのことを思ったに違いない。
   われわれは何か新しいものを得たとき、それによって失ったものについ
  て無意識のことが案外多い。新しいものを得て嬉しいはずだ、とか、喜ぶ
  べきだ、と思っても、心がはずまないどころか、逆にうっとうしい気持ち
  になったりすることがあるのはこのためである。昇進したり、家を新築し
  たりしたときにうつ病になったり、中には自殺したりする人があるのは、
  このような心のメカニズムによっていることが多い。
   われわれは何か新しいものを得たとき、それによる喜びと、その背後に
  おいて失われたものに対する悲しみとの、両者をしっかりと体験すること
  によって、バランスを保つことができる。
  (河合隼雄『明恵 夢を生きる』講談社+α文庫 P.242-253)

「何かを得るためには何かを失わねばならない」ということを
人間の進化のさまざまな点に敷衍して考えていくこともできる。
遺伝的に継承された霊的能力を犠牲にして
私たちは、思考や自由を手に入れることができる。

もちろん、何か新しいものを得るためには、
まずその前段階として得ていたものを十全に育てていく必要があるのだけれど、
それを新たな段階にシフトしていくためには、
その熟した果実を食べてしまって、別の形に変えなければならないのである。
民族意識やら国家意識やらというものも、その役割を終えたときに
それにしがみつくことなく、別の形へと変容させていかなければならない。

しかし、失う必要があるにもかかわらず
それにしがみつきながら、新たなものを得ようとすると
求不得苦の炎のなかで焼かれることになる。