風のトポスノート728
モノ学
2010.1.6

 

 

日本語の「もの」という言葉はとても面白い。
「もの」は、「物」つまり「物質」でもあり、
「者」つまり人でもあり、また「霊」でもある。

いまでも少しだけ覚えているのだけれど、
大学に入ったとき、国文学の授業で
「もの」と「こと」についてのレポートを書いたことがある。
細かい内容は忘れてしまったが、
そのとき気に入っていたヴィトゲンシュタインやらを使って
(「論理哲学論考」あたりのことをなにやら勝手に使ったと思う)
なにか怪しげで大げさなことを書いたこと、
「わざ」ということばも絡めて何かを書いたことなどを覚えている。
まあ、内容的にたいしたものではないことは確かだろうけれど、
「もの」「こと」「わざ」というセットに注目してみたのは
少しだけどこか直観が働いていたのかもしれない。

鎌田東二編著による『モノ学の冒険』(創元社/2009.12.1.発行)という
「モノ学の構築ーもののあはれから貫流する日本文明の
モノ的創造力と感覚価値を検証する」(2006年4月〜2010年3月)という
科学研究の成果報告の第一弾が刊行されている。
この2010年1月16日〜31日には、
<モノ学・感覚価値研究会展覧会「物からモノへ〜科学・宗教・芸術が
切り結ぶモノの気配の美術展〜」+国際シンポジウム>も行われるそうである。

『モノ学の冒険』の「序論」(鎌田東二)には、
言葉は「モノ」であり、「コト」であり、「ワザ」であるという視点、
そして、「モノ」を「霊」「者」「物」という3つの位相で
とらえる視点が提示されている。
それで、かつて書いたレポートを思い出したわけである。

   言葉は、モノとこころをつなぐモノであり、同時にコトであり、ワザで
  ある。その、モノとこころをつなぐもの・こととしての言葉に緻密なまな
  ざしと考察をめぐらさなければならない。
   わたしは、「モノ学・感覚的価値研究」と「ワザ学(ワザ研究)」との
  相関を位相として捉えている。
   1 霊としてのモノの位相→儀礼技術としてのワザの諸相
   2 者としてのモノの位相→表現ないしコミュニケーション技術とし
     てのワザの諸相(物語・芸術・茶道・華道・武道など)
   3 物としてのモノの位相→生産・生業・生活技術としてのワザの諸
     相(狩猟採集技術や田植えの技術など)
   つまり、モノとワザとは三層構造を持っているということである。
   1 霊ー霊(魂) 霊的位相 spiritual phase 儀礼技術としてのワザ
   2 者ー心    人的位相 personal phase 表現技術としてのワザ
   3 物ー体    物性・身体的位相 physical phase 生産・生活
            技術としてのワザ
   「ワザ」は「モノ」を通して「こころ」を自己外化し、型化するいとな
  みである。ドゥルーズは「感覚の論理」について考察した。わたしも「感
  覚」には「論理」(ロジック)があると思っているが、そこには同時に
  「マジック」(呪術・魔術)もあると考える。その「感覚」の「ロジック」
  や「マジック」が駆使されて、「感覚の最適編集」がなされたものが伝統
  としての感覚価値を形成するのであろう。つまり、そこには、「身体のエ
  コノミー」(経済・無駄がない動き・習熟)と、「身体のエステティック」
 (美学・美感・統一性・高次秩序)とが両立・相補する感覚価値形成のメカニ
  ズムがあると考えられるのだ。
   ともあれ、モノ学・感覚価値研究を手がかりにして、豊かな心、豊かな人
  生、豊かな社会にしていく世直し・こころ直しの「ワザ」を、創造し、また
  再発見し、再評価し、再編集していきたいと考えている。
  (鎌田東二「聖なる場所と言葉のモノ学的探求」 P.62-63
   鎌田東二・編著『モノ学の冒険』創元社2009.12.1.発行・所収)

河合隼雄さんに『物語を生きる』(小学館/2002.1.1発行)という著書があって、
「人間はその生涯にわたって、一人一人固有の「物語」を生きている」とある。
その「物語」の「物」というのも、
上記のように「霊(魂)」「者(心)」「体(物)」という
3つの位相でとらえてみたほうが、
私たち一人ひとり固有の「物語」もとらえやすくなるのだろうと思う。
早い話、「霊」「魂」「体」という三分節ということである。

一人ひとり固有の物語を生きるということは、
単に心だけ自分だというのでも、体だけ自分だというのでも、
霊的なものだけが自分だというのでもない。
この地上を生きて自分だけの生を生きるためには、
その三分節においてとらえることが不可欠なのではないだろうか。

その意味で「モノ」を3つの位相でとらえるということは、
シュタイナー的な神秘学への道につながってくるように思える。
単に霊的な観点ではなく、魂の観点も、そして物質的な観点をも
総合的にとらえる視点に光を当てるということで、
この「モノ学の構築」について注目してみたいと思っている。

ちなみに、「モノ学」という日本語は
『風姿花伝』第二章の章が「物学」と題されているように
世阿弥から始まっているそうである。
とはいえ、その「物学」は「ものがく」ではなく
「ものまね」と訓み、
女、直面、修羅、鬼、唐物などを詳しく説いているわけだが、
やはりそこでも「物」というのは、単に「者」としての人だというよりも、
存在のさまざまな在りようが示唆されているととらえたほうがよさそうである。
そういう意味では、「モノ学」は、哲学の根本でもある
「存在」についての問いにもつながってくるということにもなるようにも思える。
そういう意味でいえば、「もの思う」というのも、
「存在」の気配を感じているということでもあるのだろう。