風のトポスノート727
意識的に感じ、考え、動くこと
2010.1.5

 

 

第二次世界大戦後のアメリカの日本の占領政策のひとつには
3つのS、つまり、スクリーン、スポーツ、セックスがあったそうだが、
それらそのものの質はともかくとして、
目的としては、あまり意識的にならないように(精神的にならないように)、
この世を楽しく、楽しく快適に過ごすことそのものを目的にした
生活を送ることで、ある種の脅威を排する必要があるとしたのだろう。

もちろんその3つのSあるいはそれに象徴されるような方向性は、
日本だけではなく、世界の多くの国々で推進されてもいるようで、
音楽の世界でも例外ではない。
最近、惜しくも亡くなった宮下誠が過激に書き下ろした
『カラヤンがクラシックを殺した』の「カラヤン」に象徴される音楽も
そうした方向性にあるものと見ることができるだろう。

   音楽を、耳の快楽、感覚の歓び、と考える向きには、カラヤンの音楽は最上のア
  ミューズメントを提供するだろう。そのような聴き方があっても良いし、むしろ今
  日ではそのような聴き方が一般であろう。私は、そのような音楽の聴き方をする人
  に「それは違う」とまで言うつもりはない。素直に書けば、「間違っている」と思
  うし、今日の音楽の大半(「クラシック音楽」だけではなく「文明社会」に蔓延す
  る音楽全般)は、そのような聴き方に迎合しているが故に根本的に「間違 っている」
  と私自身は考えているが、音楽の聴き方は聴き手一人一人の、これまでに生きてき
  た経験によって深く価値づけられたものであり、そうやすやすと変えることができ
  るものでもないだろう。
   しかし、ここで、ほんの少しの時間で良いから踏みとどまって考えてもらいたい
  と思う。音楽は、そのようなもの以上のものだと私は確信している。音楽は悟性の
  歓びでもあり得るし、認識の歓喜でもあり得るのだ。音楽を聴くことによって、人
  は、世界とは、人類とは、個人とは、芸術とは、文化とは、或いは幸せとは、不幸
  とは、絶望とは、苦しみとは何か、ということを考える契機を手にすることもでき
  るのである。そのような聴き方があっても良い。そう私は考える。
   悟性による認識を通して音楽を、いわば主体的、積極的、自覚的に聴くことは、
  普通に考えれば間違っているのかもしれない。しかし20世紀の音楽環境は、むし
  ろそのような聴き方を聴き手に迫っているようにも思われる。聴くことによって考
  えること。そうすることで私たちは初めて音楽の核心に近づくことができるのであ
  る。
  (宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』光文社新書/2008.11.20発行P.33-34)

クラシックにそれほど詳しくなく、長く聴いてきたわけでもないけれど、
ぼくにもカラヤンの音楽はどうも相性が悪いようで、
音楽愛好家の知人が最近、カラヤンを見直してえらく褒めているので
自分も偏見を持たないで聴いてみようと思い、いくつか聴いてみたりもしたの だけれど、
やはり、ぼくにはどうも好きになれないところがある。
どうしてなのかおおよそは見当がついてはいたのではあるが、
そのポイントの部分が『カラヤンがクラシックを殺した』に
かなり過激に書かれてあるのを知った。

宮下誠の『越境する天使 パウル・クレー 』という新刊を
つい最近読み始めて、その見方の鋭さにうなっていたのだけれど、
以前にも、著者名は意識していなかったものの
『20世紀音楽 クラシックの運命』という著書を読んだことはあったことに気づき、
他の著書にもあたっているときに、上記のものを見つけた次第。
しかし、ファンになりそうだなと思った途端に亡くなっていたことがわかると いうは残念。
音楽と絵画の両面に渡って広く深い見識を持ちながら、しかも石の愛好家でも あるという。
しかもぼくよりも少し若いときている。
著書を読むにつけ、これだけのものを書くためには、
いかに心身共に酷使したのだろうなということは予想がつく。

『カラヤンが・・・』の刊行されたのが一年と少し前。
その巻頭に以下のような言葉が記されていることで状況は少しながら知られる。
よほど見ていられないほどの状態だったのかもしれない。
とはいえ、これほどの深い見識の反面、著者の仕事内容をこれほどまでに嫌う人と
結婚してしまうというのは、ある種の魂の影の部分を見てしまったりもする。
おそらく、著者は苦しみとは何かを生においても積極的に見たいと思ったのか もしれない、とか。

   驚きとともに附言しなければならないことがある。今まで私の仕事を蛇蝎のよう
  に嫌い、頑なまでに無視し続けてきた妻、香が今回は校正の筆を執ってくれた。神
  の悪戯か悪鬼の冗談か、俄には決めがたいが、いずれにしても空恐ろしい。ともあ
  れ、労うに限る。お祓いの意味も兼ねて、心からありがとう。
  (宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』の巻末「謝辞」より)

それはともかく、なぜカラヤン的なものへの違和感を感じるかだが、
上記の引用にある点に加えて、ひどく過去へ過去へと人を向かわせるような感じや
ひどく美しい音楽に顔があるとして、その音楽に呼びかけたとき
その音楽が「こんな顔かい」といってふりむいたとき、
そこにのっぺらぼうや虚ろがひろがっているようなイメージが浮かぶ。
そしてゾンビに襲われた人が自分もゾンビになってしまうような、
そんな強力かつ強引な力さえそこはあったりもする。
最近カラヤンを褒め始めた知人のことを考えても、
そのどこに魅入られたのかというのもなんとなくわかる気もするのだ。

音楽は、対象が明確でなく形にならず、時間とともに過ぎ去る刹那的なもので あるだけに、
ある意味、というかひどく感覚的に受容されすぎてしまうところがある。
そしてその感覚は時代の集合的な部分の影響を特に強く受ける。
というか、何も考えなくても、「いいじゃん」という感じで気軽に聴けて
流行歌という現象が刹那的にもあるように、時代に共有されやすいし、
自分がいったい何を聴いているのかを意識化する必要をあまり感じなかったりもする。
そういうなかでの唯一の規準が、快・不快の快を圧倒的に選択するということ でもある。
そしてその「快」の質について自覚的であることはほとんど望めない。
流行しているものだけしか聴かない人は当然のことだが、
自分では耳がよく、音楽を深く理解していると思い込んでいる人も
そこに自分が何を聴いているのか、を意識化することない場合も変わらないだろう。
集合無意識的な働きにせよ、ある種の権威や「こだわり」による特権化の働きにせよ、
結局は、「教えられたこと」に沿って動いていることに変わりはない。

ちょうど、「ひびきの村」でオイリュトミーを教えているという
ヘルガ・マイケルズのDVD付の本が出ていたのを読んで、
その姿勢に共感を得たので、上記のことと関連して
「意識的に動く」ということについてのところをご紹介しておきたい。
(「動き」に関してはぼく自身とても反省するところが大なのもあり)
これは、身体における動きだけではなく、
考えたり感じたりすることも含めた動きとしてとらえたほうがいいように思う。

  ヘルガ (…)日本での私の教え方は、はい、これを教えますよというやり方で
  はありません。「あなたはいったい誰なの?」「日本人としてあなたは何を必要
  としているの?」と聞くようにしています。
  高木 キーワードは「個人化」ですね。日本人はよく「私」という主語を抜かし
  てしゃべる。そんな日本という国を「個人化」という観点から考えるといろいろ
  発見があるんでしょうね。
  ヘルガ 私は日本に来るのが好きです。日本人は動きの中に精神的なものを感じ
  る力が強く、オイリュトミーに天性の才能があると思います。
   私の使命は皆さんがより意識的に「動く」ように導くことです。そうすれば、
  日本の文化が変容する可能性すらあります。日本文化の美点はそのままに未来へ
  進化してゆくのです。
  (・・・)
  ヘルガ 私は無意識に動くこともできます。それは自分の「動き」を意識せずに動
  くことです。また意識的に動くこともできます。けれども、この二つはずいぶん違
  うのです。
   意識的に、これからやることを考えよう、よしやろうと始めることもで きますし、
  あるいは、これから前に進むけれども、それはどんな感じがするのか、と想像する
  こともできます。またこれから意識的に後ろへ動くけれども、どんな感じがするだ
  ろうかと考えることもできます。こうしたことが感情を刺激して、ふだん絶え間な
  く湧いている感情の成長を助けることになり、より洗練された、より目覚めた感情
  に至るのです。    
  (『動きこそいのち/オイリュトミスト ヘルガ・マイケルズの世界』
    編集・構成 高木幹夫 みくに出版/2009.11.20.発行 P.60-61/80)

日本文化の変容にさえも向かうことができる、というのは
決しておおげさな言い方ではなく、まさにそうなのだろうと思う。
そのためにも、今自分の位置している文化(環境)についても
意識しておく必要があるとも思う。
ちょうど、内田樹の日本語環境の特殊性について次のところを興味深かったの でついでに。

   漢字は表意文字(ideogram)です。かな(ひらがな、かたかな)は表音文字
  (phonogram)です。表意文字は図像で、表音文字は音声です。私たちは図像
  と音声の二つを並行処理しながら言語活動を行なっている。でも、これはきわめ
  て例外的な言語状況なのです。
   文字と音声の両方を使うという点では世界中の文字言語はどこも同じじゃない
  かと言う人がいるかも知れませんが、日本はちょっと違う。
  (中略)
   白川先生の解釈から私たちが知るのは、古代の呪術的な戦いは言葉によって展
  開したということです。「文字が作られた契機のうち、もっとも重要なことは、
  ことばのもつ呪的な機能を、そこに定着し永久化することであった」ということ
  です。
   私たちはもう漢字の原意を知りません。けれども、漢字がその起源においては、
  私たちの心身に直接的な力能をふるうものであったという記憶はおそらくいまだ
  意識の深層にとどめている。漢字というものは持ち重りのする、熱や振動をとも
  なった、具体的な物質性を備えたものとして私たちは引き受けた。そして、現在
  もなお私たちはそのようなものを日常の言語表現のうちで駆使しています。
  (中略)
   私たちは言語記号の表意性を物質的、身体的なものとして脳のある部位で経験
  し、一方その表音性を概念的、音声的なものとして別の脳内部位で経験する。養
  老先生のマンガ論によりますと、漢字を担当している脳内部位はマンガにおける
  「絵」の部分を処理している。かなを担当している部位はマンガの「ふきだし」
  を処理している。そういう分業が果たされている。
  (内田樹『日本辺境論』新潮選書/2009.11.20.発行 P.225-230)

上記の部分は、日本人であることの「強み」でもあるのだけれど、
逆にいえば、そういう「強み」があるがゆえに、
その言葉そのものの力の前で、「意識化」というか「自我」がおろそかにされ てしまう、
という側面について考えておく必要があると思っている。
俳句や和歌などを詠む人も日本では多く、
ある種の型や作法をある程度のスキルや感覚をもって使いこなせれば、
そこに「私」がいなくても、言葉そのものが巧妙に動いてくれるという危険性である。
おそらくオイリュトミーにしても同様なのかもしれない。
模倣がこの上なく上手な日本人である。
自分が模倣していることに自覚的であり、
それを使いこなせる自我が明確に育った上で、
しかも模倣に流されず、自我を超えていけるのであればいいのだけれど、
自我のないままに、森有正のいうように一人称も三人称も不在のままで
「二人称」しか存在せず、身体も言葉ももちろん感覚や感情も動いているというのは
カラヤン的なゾンビ現象ではないかという気もする。

しかし、はじめにもどるが、
宮下誠はカラヤンをとても聴きこんでいるようだし、
その音楽のある部分にとても愛着ももっているようである。
しかしその音楽に魅入られる自分をきちんと見すえながら、
その「カラヤンの音楽」に象徴されるような危険性の部分に気づき、
陶酔のうちに我を失ってしまうのではなく、
そこにある問題性をしっかり見すえているように見える。
ほかの著書を読んでもそのことは十二分にわかる。

冬の朝、あたたかい布団のなかで、起きなければならない時間になる。
あたたかい布団のなかは、母胎のようにそこから出たくはない場所である。
しかし、あえて眠い目をあけ暖かい環境を捨てて、
そこから出て顔を洗い、歯を磨き、寒い風に吹かれなければならない。
もちろん、いつまでも母胎のなかで過去に生きるというのもひとつの選択ではあるが、
「20世紀の音楽環境は、むしろそのような聴き方を聴き手に迫っているよう にも思われる。
聴くことによって考えること。そうすることで私たちは初めて音楽の核心に近 づくことが
できるのである」とあるように、
私たちは、人間の未来に向け、そのための「核心」に近づく必要があるように思う。

ちょうど、NHKの大河ドラマは、福山雅治主演の坂本龍馬。
ちょっと龍馬っぽくはないが、ある種、水瓶座的なものがそこに付加されてい るようにも見える。
過去にしがみつき、過去とのバトルに終始する方向性を超えて
まだ見ぬ未来を見ようとする視線が魅力かもしれない。
個人的にいって、水瓶座であり高知生まれとしては、そこらへんに共感したいところ。