風のトポスノート726
毒と悪
2010.1.4

 

 

自分のなかに悪があることに自覚的か
それとも悪は自分の外にあるとしか思えないか
それとも悪は本来ないのだとするか
悪についての態度によって世界観はさまざまである。
もちろん、悪を時期はずれの善、TPOをわきまえない善、
といったとらえ方をすることもできるので、
絶対化するかどうかということはまた検討が必要だけれど。

ホメオパシー出版からでた『バイタリズム』という
「類似の法則と植物レメディーの系譜/
 パラケルスス、ハーネマン、ラーデマッハー、
 トムソン、ケント、バーネット、バッチ」
という副題のある訳書(著者は、マシュー・ウッド)の
日本語版監修者(由井寅子)まえがきで示唆されている
バッチ・フラワーレメディーとホメオパシーの対比は、
そうした悪・善に関する世界観の違いに対応していて大変興味深いので、
その部分を引用紹介しておきたいと思う。

   エドワード・バッチは、病気を根治するために毒を適用するのは、間違いであ
  り、間違いが間違いを排除できるはずがなく、善だけが悪を打ち負かすことがで
  きると考えた。そして植物の有効性だけが治療に役立つのであって、毒物が精神
  の質を向上させることはないと主張した。しかし、精神の質を向上させるには、
  自分から余計なこだわりを解放することによって達成されるのであり、何かを付
  け加えることで達成されるのではない。そもそも私たちが花を美しいと思うとき、
  それは自己の本質を讃美しているのである。すなわち、花はわれわれの本質をそ
  のままに表わしているのだ。だから、自分から余計なものを解放すれば、その自
  ずと本質が花開くのである。そして自分から余計なものを解放するには、その自
  分自身となってしまっている本当の自分ではない部分と向き合うことが必要なの
  であり、本当の自分でない部分、すなわち毒こそが、精神の質を向上させるため
  に必要なのである。
   また悪を自分と無関係なものとみなしたとき、それこそがこの世から悪がなく
  ならない原因となる。悪は私たち一人ひとりの中にあるのである。それを私たち
  一人ひとりが直面していかなければならないことなのである。そしてそれに気づ
  くためには、毒が必要なのである。
   同時に善も私たち一人ひとりの中にある。われわれが花を美しいと思わなくな
  たっとき、われわれの魂は死んでいると思ってよい。花は本当にさまざまな花が
  あるが、どれも美しい。花はわれわれの本質を触発する。それは自分自身の魂の
  本質を見ているのである。フラワーレメディーとは、ある意味われわれの本質を
  見えて気づかせているといえる。真実の光が闇を払拭することもあるのである。
   したがって、毒と花とは私たちの本質が開花するために必要な両輪を担うもの
  であり、どちらかを否定するものではないと考える。必要なのは毒と花との統合
  である。ただ私としては、どちらかというとホメオパシーのほうが好きである。
  花は自分の本来あるべき姿を見せること、それは励みになるだろう。意志を奮い
  立たせるだろう。しかしそれは答えであって、苦しみの中にあえいでいることで
  気づき、自分でない自分を見ることで古い自分を超えていくことが生きる意味で
  あり、学習であり、魂の進化であると私は思っているからである。ゴールにたど
  り着くことが目的ではない、ゴールにたどり着くまでの過程が生きることの意味、
  すなわち生きることそのものが生きる意味だと考えるのである。ただ、苦しみに
  おおいては花は希望となるだろう。私たちの本質を思い出させてくれるものとし
  て、花は存在している。
  (由井寅子 日本語版監修者まえがき より
   マシュー・ウッド『バイタリズム』ホメオパシー出版 2009.12.1.発行 所収)

世界は、どうみても苦しみや悲しみに満ちている。
もちろん、本来は喜びに満ちているはずなのかもしれないし、
喜びがないというわけでは決してないが、
おそらくこの地上世界があるということの意味は
この生を生きることそのものによって
魂を成長させることにあるのだとぼくは理解している。
そして成長するためには、世界の苦しみや悲しみ、
そのなかでときおり咲く喜びとともにいるということが
どうしても必要なのだと思っている。
上記の引用にあるように、
ゴールにたどり着くことではなく、ゴールにたどり着くまでの過程が
こうして生きている意味を実感させてくれるのだと思う。

そのように、世界とともにあるということは、
世界に蔓延している悪とも、ともにあるということである。
自分の外にある(と思い込んでいる)悪を自分から切り離して
糾弾することでは世界は変容することができない。
少なくとも生きはじめたということは、
生老病死とともにあるということでもある。
世の中は、生老病死から逃れようとしてさまざまな悪を発生させる。
若さにしがみつこうとすることで生まれる悪、
病から逃れようとして他者の臓器までもあてにする悪の可能性など。
それらとともにあることで、それらをほんのわずかでも変容に導くことができ ればと思う。
その出発点が、自分のなかにある悪に向き合うということなのではないだろうか。
そしてむしろ、そのことから目を背けさせようとするさまざまなものに
注意深くあることが必要であるように思う。