風のトポスノート724
深まりへ
2010.1.2

 

 

   いかに生きるか、という問いを前にして、一定の答えがあるはずはない。それ
  は我々一人一人自分で選びとり、あるいは築きあげるほかはない。ただ一回かぎ
  りの人生で、常識などは、むろん問題にはならない。問いも答えも自分でするほ
  かはないのであるが、この問答に特殊なことは、問いが発せられる時、答えはす
  でに与えられている、ということである。
  (中略)
   ただ私には深まりが大切なのである。深まりとは人間経験の深まりである。私
  にとって経験とは現実そのもの以外の何ものでもなく、しかも経験であることに
  よって、現実には無限の深まりが可能であり、神にさえ到りうるのである。  
  (森有正『いかに生きるか』講談社現代新書/P.3-4)

どんなに多くの体験をしてもそれが経験になるかどうかはわからない。
量が質に転化するとはかぎらないように。

あらかじめ正解が用意されているテストのような体験を
どんなに繰り返し、そして常に正解を用意できるようになったとしても、
正解の用意されていない問いの前で
さらにいえば、問いそのものを生み出さざるをえないときに、
自らが問い、それに答えようとする力を身につけられるかどうかはわからない。

もちろん、仮にであるとしても正解の用意されている問いに答えることで、
そのことを力として自分のなかになにかを生み出すための
なにがしかの養分にすることは必要であることも多いだろうが、
そしてそれはある種の「型」の習得をも意味するだろうが、
だからといって、型を離れたところで、
ということは、自らがそのつど生み出すことの必要な形を
つくりだしていけるかどうかは保証されているはずもない。

それ以前の問題として、
現代はかぎりなく情報の与えられすぎる時代である。

インターネットで検索すれば、さまざまな情報をたやすく手に入れることができる。
かつては入手することのとても煩雑でむずかしかった書籍なども
検索して調べることでその多くを安く手に入れることもできる。
そもそも、かつて三蔵法師が天竺にお経を手に入れるために
経なければならなかったさまざまな困難はいまは多くの場合必要がない。
家のデスクの上に置かれたパソコンのキーを打つだけで自宅まで届けてくれる。
音楽を聴くにしても、コンサート会場等での生演奏でなければ、
その多くはCDや最近ではmp3データで入手し
家でどころかどこにでもポケットに入れて聴くことさえできる。

もちろんそうした情報を入手できる環境は
そこに新たな可能性を生み出すことができるわけだが、
たとえば、大きな会場に世界のあらゆる料理が並べられていて
「さあ、どれでも好きなものを好きなだけお食べ下さい」
と案内されたとしても、どれを食べようか迷うばかりだろうし、
たとえ自分の趣味にあった料理を運良く?見つけて食べることができたとしても、
食べられる量そのものを増やすことができるわけではないし、
あまりにもおいしそうな料理がありすぎて
おなかが空くのを待って、今度は何を食べようかを物色するようなことを
ずっと繰り返すことになるかもしれない。
それがその人の生き甲斐であればそれはそれで結構なことだが、
その「体験」の量をなんとか「体験」にしようとしても、
そこには手がかりさえ見つけることができないこともあるだろう。

上記のたとえが適切だったかどうかわからないが、
量の多さは必ずしも質にはつながらないし、
むしろ量の多さゆえに質への転化が阻害されてしまうこともあるように思う。
実際、個人的にいっても、あまりに読みたい本/読める本、
聴きたい音楽/聴ける音楽がたくさんありすぎると、それらに翻弄されて
それらのなかからほんとうに自分に必要なものを選択して
そこからしっかりと学ぼうとする余裕/時間がなくなってしまうところがある。

人それぞれに、受容でき、それを深めることのできる能力はさまざまだが、
情報がその能力を超えて与えられてしまうと、
コップだといっぱいになる水が
プールに入れられると何の意味も持たなくなってしまうように、
その人にとって必要な水を飲むことができなくなってしまう。
そして水を飲む必要のある人が
はたして自分には何が必要なのかさえわからなくなってしまって、
空っぽのプールで泳ごうとするような馬鹿げたことにさえなってしまう。
(つまらないたとえだけれど、そうとしたいえないような行動をする人もいたりする)
ぼく自身にしても、ひょっとしたらそれに近い行動をすることもあるかもしれない。
実際、音楽のデータ整理をするだけで一日を費やしてしまって、
最初に聴きたいと思った音楽を結局は聴けないというような状況は少なくない。

今年のお正月は、幸い、静かに過ごせているので、
いったい自分はなにをしたいと思っていて、
そのためになにができるのか、優先順位としてどうなのか、
といったことをひとつひとつ考えることにしてみた。
いうまでもないことだし、わかってもいたことだけれど、
ふだんは、上記に書いたように、
ほんとうに自分の能力を超えた情報の前でそれらを「検索」「閲覧」しているだけで
結局食べることのできたものがわずかしかないことに気づくことになった。
もちろん、それら全体の能力をあげていく努力を欠かすわけにはいかないが、
それにしても、質になるための営為についてもっと検討する必要を痛切に感じた。

最初の引用にあるように、大切なのは「深まり」だと思う。
もちろん「神に到る」とかいうようなことではなく、
自分がいま問う必要のあることは何か、を
しっかりと見定めることのできる力を育てること。
多くの情報のなかから自分に必要な情報を的確に得て、
それを多く体験に結びつけるというよりも、
それを経験にしていけるものを見いだしそこに向かって歩みを進めること。

昨年は、それまでわりとたんたんと書き込んできたのを
(もちろん面倒なのもあったのだけれど)あまり書かないでいたりもした。
それは、多くの情報を果たして経験にできているかということを
森有正の示唆から考え直してみたためでもあったように思う。
今年はそのあたりのことも常に意識しながら、
(そんなに変わりはないだろうけれど)やっていきたいと思っている。