元旦の「旦」の字義は、 
          「一」は雲、「日」は太陽で、 
          雲の上に太陽が姿をあらわす朝を意味しているとか。 
        今日は、2010年元旦。 
          自宅からではあるけれど、快晴だというのもあり、初日を拝む。 
          最近は朝6時頃には起きていて、 
          ちょうど朝日が昇り始める頃に家を出るので 
          毎朝朝日を浴びているともいえるものの、 
          やはり元旦の日の出というのは気持ちがいい。 
        ところで、昇る太陽を拝することについて 
          ユングが自伝のなかで旅の記録として記しているところがある。 
          プエブロ・インディアンを訪れたときのことである。 
           オチウェイ・ピアノと屋根に腰掛けていると、太陽は高く昇り、 
            まぶしいほどに輝いた。そのとき、彼は太陽を指していった。「そ 
            こを行く大洋が我々の父ではないだろうか。そうでないと誰がいえ 
            よう。他に神が存在するなどと。太陽がなくて、なにが存在できる 
            だろうか。(略) 
             「太陽は見えざる神によって造られた、火の玉だと考えはしない 
            か」と、私は彼に尋ねてみた。(略)「太陽は神だ。誰もが見るこ 
            とができる」とぽつんと答えた。 
        また、ウガンダを訪れたときのエルゴン族の老人の話。 
          「朝になって、太陽が昇るときわれわれは小屋からとび出して、手 
            に唾を吐き、その両手を太陽に向かってさし上げるのだ」と。(略) 
            この行為がなにを意味するのか、なぜ手に唾を吐きかけるのか、私 
            は尋ねてみたが無駄だった。「われわれはいつもそうやってきたの 
            だ」という。なにをしているのかということは分かっていないのだ 
            ということが、私には明らかとなった。彼らはこういった行為の意 
            味を見ない。しかしわれわれでも、なにをしているのかはっきりし 
            ないままで、クリスマスツリーの蝋燭の灯をつけたり、復活祭の卵 
            を隠したり、いろいろな儀式をしているでないか。 
             老人はこれこそ万人にとって真の宗教ではないか、−−つまりすべ 
            てのケビロンド族、すべてのブガンダ族、この山から見渡す限りの 
            部族、さらに限りなく多いはるかかなたの部族まで、すべては「ア 
            ドヒスタ」、御来光の瞬間の太陽を手礼拝していると言った。この 
            日の出の瞬間のみ、太陽は「ムングウ」、すなわち神であった。紫 
            色の西空にかかる新月の、はじめの微妙な金色の鎌形も、また神で 
            ある。しかしそえもそのときだけであって、それ以外のときはなん 
            でもない。 
        日本の「初日の出」というのは、1月1日(元日)の日の出のことで、 
          一年に一度の最初の夜明けとしてめでたいとされていて、 
          夜のうちから初日の出のスポットをめざして、 
          水平線の見える海岸や山頂、展望台などに出かける人も多いわけだが、 
          これは、四方拝という宮中で行われる一年最初の儀式が始まりで、 
          それが一般に広まって現在のような習慣になっているという。 
        現在の元旦は、太陽暦で冬至の後になるので、 
          旧暦の場合は少し時期が遅くなるけれど、 
          初日の出を拝むというのは、 
          一年の最初に太陽が生まれてくる=新生するというのを 
          喜び、祝う宗教的な心情からきているのだろう。 
        冬至は、太陽の力がいちばん弱い日で、 
          この日を境にして、太陽は力を強めていく。 
          つまり、太陽神が闇(陰)から光(陽)へ生まれ変わる日が冬至で、 
          古代からさまざまなかたちで「太陽神の祭り」があり、 
          キリスト教はこの「冬至の祭り」を 
          キリストの誕生日としたといわれている。 
          つまり、地球の霊として太陽霊が生まれたことを祝うということ。 
        しかし、イエスの生誕がはじめて祝われたのは 
          起源354年のローマだったそうで、 
          ゴルゴタの秘儀を理解している人にとっては 
          この祭りは1月6日だったということである。 
          この12月24日と1月6日のあいだの13日に関しては 
          シュタイナーの「13聖夜」という、 
          1911年12月26日、ハノーヴァーでの講義録がある。 
          (佐藤公俊さんの訳がありますので、 
          興味のあるかたは以下でお読みください 
          http://homepage.mac.com/satokk/13nights.html) 
        さて、クリスマスからお正月にかけての時期になると 
          J.S.バッハの「クリスマス・オラトリオ」を何度か、 
          太陽霊の誕生を祝う気持ちというほどでもないのだけれど、 
          毎年この時期になるとおもいついて聞くことになる。 
          定番は、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏。 
          ちなみに、BACHという名前には 
          音型として十字架が内在しているというのは有名な話。 
          カバラ的に見ても、BACHの名前は、 
          キリストの十字架、受難の道につながっていることを 
          バッハ自身が意識していたようである。 
        先の引用のなかで、エルゴン族の老人の話で 
          「われわれはいつもそうやってきたのだ」という言葉があったが、 
          わかないでも続けてきている慣習にしても、 
          やはり意識魂の時代にある我々にとっては、 
          その一部でもなぜなのかと問いかける気持ちが不可欠ではないかと思っている。 
          もちろんすべてに明確な理由を見つけることは難しいとしても、 
          「われわれはいつもそうやってきたのだ」だけに安住してしまうことで 
          陥ってしまう迷妄に少しでも光を差し込むことはできるのではないか。 
        とはいえ、すべてに性急で短絡的な答えを求めてしまうことも 
          また愚かなことではないかとも思う。 
          ときにそこには二律背反的な矛盾もでてきはするが 
          そこで悩み迷うプロセスを避けないこともとても重要なことなのだろう。 
          重要なのは答えを固定的に導き出すことではなく、 
          そのプロセスそのものを歩むことなのだから。 
          愛にとって大切なのは、愛することそのものあって 
      愛されようとして愛を固定してまうことではないように。  |