風のトポスノート722
足元のゴミを拾う(年末お掃除論)
2009.12.22

 

 

   お掃除というのはもともと組織的にやるものではないんです。
  組織的かつ徹底的にやろうと思うと、思っただけでうんざりして、
  つい先延ばしにしてしまいますから。お掃除の要諦は「徹底的に
  やってはいけない」ということです。とりあえず「足元のゴミを
  拾う」ことで満足する。手のつけられないほど散乱した場所を片
  付けるという経験をされた方はおわかりでしょうけれど、足元の
  ゴミを拾うことからしかカオスの補正は始まらない。完璧な作業
  工程表に基づき、システマティックかつ合理的に掃除をするとい
  うことは原理的に不可能なんです。そのような工程表の作成に投
  じる余力があるような事態はそもそも「カオス」とは呼びません
  から。
  (内田樹『日本辺境論』新潮選書/2009.11.20.発行 P.5-6)

カオスからコスモスを形成するといった壮大なビジョンやら
ビルを壊して更地にして新しく建築しなおすやらではないかぎり、
わたしたちは、まずすぐ足元から始める以外に方法はない。
もちろん、足元だけを見て他を見ないとまた足元さえ崩れてしまうから、
自分がいまどこにどういう状態でいるかということを
ある種俯瞰できるだけの視点は必要ではあるが。

片付けもののできない人というのは、
ぼくの知る限りにおいて、
まず自分のいちばん身近なところを片付けるどころか
その身近なところのゴミが増えていくのを放置する、
もしくは見ないふりをすることによって
いちばん身近なところの累積したゴミによって
身動きがとれなくなるように見える。

心口意という重要な修行テーマというのも
早い話が、もっとも近しいところにあるものに
意識的になってゴミをださないようにしようということにすぎない。
しかし、その「すぎない」ことのいかにむずかしいことか。
そして「すぎない」ことを軽視することによって
人は大いなるゴミの山に埋もれてゆくことになる。
カルマの法則というのもこのゴミの法則そのものである。
足元のゴミを拾うようにするとそれによって身の回りはから付いていき、
足元のゴミを拾わないことによってそのゴミに埋もれてしまうだけのこと。

とはいえ、その一番近いところにあるものを直視して
それに手をのばしてゴミであるものはゴミとして
そうでないものはそれなりの秩序に戻し・・・
ということは、実際のところ大変むずかしいのである。
たとえば、「ごめんなさい」がいえない人というのは
自分の捨てたゴミを拾うことに
さも自分のプライドがかかっているかのように思い込んでいる人である。
実際は、自分のプライドがかかっているのであればこそ
「ごめんなさい」というほうが適切なのだけれど、
その適切なことができないことが問題になる。
そしてその不適切さはその不適切さゆえに次の不適切さを生み、累積していく。
嘘が嘘を呼ばざるをえなくなるように。

そのようにすべてはほんとうはごくごく単純なことに発している。
結局は破綻してしまうあらゆることの多くの発端は、
そうしたささいなことであるにもかかわらず、
不適切なプライドや見えや思いこみや軽率な衝動に端を発している。

だから、年末に大掃除をしたからといって
一見片付いたかのように見える風景があったとしても
足元のゴミを拾わないかぎりゴミは見えないところでも増殖していく。
百八つの煩悩をひとつひとつチェックして鐘を鳴らしてみても
鐘といっしょにひとつひとつゴミを拾わないかぎり片付くことはないのである。
やれやれ。