風のトポスノート721
成長について
2009.12.3

 

 

   実は現在の人間は、二十七歳で肉体の成長が止まります。勿論、経験は
  更に積んでいきますから、三十代以降、いくらでも進歩していきますけれ
  ど、身体の成長と、それに伴う鉱物的な知性の成長は、二十代後半でだい
  たい止まる、と言うのです。
   紀元一世紀、二世紀の頃は、三十三歳になってから、体の成長が止まり
  ました。未来においては、今から千年、二千年くらいの間に、二十一歳く
  らいで成長が止まり、今から五千年くらい経つと、十四歳くらいで成長が
  止まる。それが人間の肉体の未来の方向性で、人間は今、そういう方向に
  向かって生きている、と言うのです。なぜそうなるのかについては、何も
  言っていません。ただ、古代人のほうが長い間、成長過程を辿っていた、
  一方、現代人は二十代の後半で一応成長が終わり、その後は個人の努力次
  第だ、というのです。二十代後半まではいやでもおうでも成長していく。
  私の実感ですと、そういう意味での私の成長は、二十二歳くらいで止まっ
  たようです。二十代は、ほうっておいたら成長しませんでした。だから、
  こういうことが一般に言えるかどうかよく分かりませんが、シュタイナー
  はそう言っています。
  (高橋巌『生命の教育』角川選書/P.90-91)

ぼくの知性なんか、たかのしれたものだが、
「鉱物的な知性の成長」がいつ頃止まったかを考えてみると
高橋巌さんのように二十二歳頃までのような気がする。
そして二十代はいろんな意味で、
いろんなことを一からはじめざるを得なかったようにも思う。
今からすれば、なんだか混沌としたイメージがある。

混沌のなかからようやく三十歳前くらいでコスモスへ向かうなにかが
形成されはじめて、三十五歳あたりで少し胎児のようなかたちになり、
四十歳を過ぎてようやくよちよち歩き、
その後十年ほどでなんとか歩けもするようになり、
ここ二年ほどでようやく、ようやく「ばぶばぶ」ではあるけれど、
なにがしかの言葉のようなものを習得しはじめている感じがしている。

そういえば、ここ一、二年ほどで、
いままでいろいろ見てきたものが
いろんなかたちでぼくのなかでまとまってきている感じがする。
そのぶん、これまでとは違うスピード感で
いろんなものを吸収できはじめているようにも思う。
ぼくのなかのさまざまな「影(シャドー)」も
おそらくはぼくとして統合されはじめているのかもしれない。
・・・とはいえ、またあとでふりかえってみると
たぶん、いまのぼくなんか、よちよち以前なのだろうけれど。

もし、「鉱物的な知性の成長」の止まった段階のままだったとしたら、
と想像すると、ちょっとぞっとしてしまう。
たぶん、「鉱物的な知性の成長」が一種の飽和状態になった時点で、
人は知性的に一度は死を迎えることになるのだろう。
その死をこえてよちよちとでも歩いていかないと
実際、ゾンビのようにしか生きていけないことになりかねない。
自分が死んでいることに気づかないまま動いている・・・。
「おまえはもう死んでいる」と言ってくれることもないままに。

最近は十代後半になると、もう若くないとかいうこともあるようだけれど、
ある意味、そういう感覚は正しいのかも知れない。
それは、もう成長できないということでもあるのだから。
十代後半で成長をやめてしまった人間は、
それからどのように生きていくのだろうか。

ちなみに、人の成長について、
ライフサイクルということがよくいわれる。
エリクソンなどが有名だけれど、
シュタイナー関係でもバイオグラフィーとかいうことが示唆されている。
東洋では、たとえば孔子などが「四十にして惑わず」というような
西洋とはちょっと違った観点からライフサイクル的なことが示唆されたりもする。
これらはあくまでも知性的な観点からの成長やそのプロセスのことだけではないが、
人間にとって必要な成長のためのライフサイクルが、
ある意味いちど二十代あたりで大きな壁をもっているとしたら、
そのこともふまえたライフサイクルを考えていく必要があるように思う。
実際、孔子のいう「五十にして天命を知る」とかいうのは孔子がそうなのであって、
ぼくなどは「五十にしてはいはいを卒業して歩き始める」くらいなものなのだから。