風のトポスノート720
時間と意志
2009.11.12

 

 

長いか短いかはわからないが、気づいてみれば
半世紀を生きてきたことになるのだが、
自分は生きることに積極的でなかったとあらためて感じている。

運命は宿命ではなく、立命である云々ということは
「自由」の名においても、いうまでもないことは承知しているのだけれど、
はた、自分がどうだったかというと、立命とはほど遠い。
ある種の消去法で、ただ自分がこれだけは嫌だということを
できるだけ避けて生きてきたにすぎないところが多分にある。

知りたい、理解したいとうことにおいてはおそらくひどく貪欲だとは思うが、
実際に生きるということにおいて貪欲かというとかなり消極的で
スポーツ選手が人差し指を突き上げるような感覚はまずほど遠い。
どこかでこの世は仮の宿りだという感覚が根強くあって
その仮の部分に積極的に関わることに対してはひどく醒めすぎている。
ある種の「意志」が欠如しているということでもあるのかもしれない。

テレビドラマの「JIN -仁」を見た。
脳外科医である南方仁が幕末にタイムスリップする話。
南方仁は、自分が医療行為をすることで人の生死の運命を変えてしまったら
未来の人の生死の運命そのものが変わってしまうのではと恐れるが、
その時代で自分にできることをせいいっぱいやろうと決意する・・・。

ある意味で、こうして生まれてくることそのものが、
記憶を失ってはいるもものの、タイムスリップのようなものなのだろう。
この地上で自分がなにかをする、なにかにかかわる。
そうすることで、どんなささいなことであるとしても
世界がなにがしか変わってしまっては大変だという感覚が強いと
生きるということにおいて積極的にはなれない。

しかし、生きるということは、どんな形ではあれ、
世界を変えるということである。
というか、世界そのものに自分は織り込まれている。
そして、世界という時空は私という存在を折込ながら展開していく。

シュタイナーによれば、時間が生まれたのは土星紀だという。
トローネの意志である。
それまでは、時間ではなく「持続」する宇宙。
土星紀以降、時間によって世界は展開していく。

ここ数ヶ月間、この時間と意志ということについて考えている。
シュタイナーの宇宙進化のビジョンについて見ていくと興味深いのは、
たとえば土星紀で(土星紀で人間の段階にあった)人格霊が
「本来そうすべきであった以上に、土星全体にみずからをより深く刻印づけ」
すべてを自分の中に取り込まずにあとに残したように、
「本来そうすべきであった」ものではない行為を行なう、
ということが宇宙進化の鍵になるように思えることである。
おそらく現在の人間の「自由」ということもそういうことなのだろう。
その意味で、「自由」な「思考」を意志することによって世界が展開していく。

さて、先日、ロバート・シュワルツ『苦しみを選ぶ「勇敢な魂」』という本を読んでみた。
病気や障害、事故、そして愛する人の死など、
みずからがそれらの人生を計画する「勇敢な魂」について探究を続けた記録。
苦しめば苦しむほど魂は成長する、というのではないけれど(それではマゾだ)、
ある種の意志が私達の生には私達の深みから働きかけているのは確かだと思う。
比較的その考え方をよく表現していると思われるところを最後に引用しておきたい。

   もしあなたが身体的に障害を持っていて、それが自分の唯一の人生であり、
  自分は身体以外の何物でもないと信じていたら、絶望感に見舞われるだろう。
  一方、自分が永遠の魂であることを知っていたらーーあるいは、感じていたら
  ーー人生はまったく異なる様相を呈するだろう。さらに、自分で自分の障害を
  計画したことや、それが深い意味を持っていることも知ったら、あなたの人生
  はその意味を解き明かす探究になるかもしれない。苦悩は和らげられ、空虚は
  目的意識に取って代わられるだろう。
   この3年間の間に、わたしは、すべてのことがより高次の意味を持っている
  と信じるようになった。また、人生に目的があることを信じ、目的にある人生
  の流れが、たとえどこにわたしを連れていこうとしているかわからなくても、
  それに進んで身を委ねられるようになった。わたしたちの世界は苦悩と悲惨な
  出来事に満ちているが、それでもわたしはこの世界を、本質的に美しいところ
  と見なせるようになった。わたしは人生に甘美な心地よさを感じる。至るとこ
  ろに感じるのだ。ときに痛みによってかき消されたり、あいまいにぼかされた
  りすることもあるが、どんな困難な状況の背後にも常にそれを感じるのだ。
   わたしたちに求められているのは、さまざまな試練のなかにそれを見いだす
  ことである。
  (・・・)
   わたしはかつて批判していたところに、万物の聖なる秩序を見る。かつて欠
  点を見ていたところに、完璧さーー計画どおりに展開する人生の完璧さーーを
  見る。そのような秩序はわたしたちの試練のなかだけではなく、一見、ささい
  と思える人生の側面においても、歴然としている。木から落ちる葉っぱ、風に
  揺れる草……何事も偶然には起こらない。すべては聖なる秩序のなかにある。
  必ず。
   わたしたちはめいめいここにいる存在理由である聖なる目的を持っている。
  それはわたしたち自身の学習を含みつつ超えている。つまり、わたしたちは、
  本当の自分を思い出すためにだけではなく、自分自身のかけがえのないエッセ
  ンスをお互いに分かち合うためにさまざまな人生の試練を計画するのだ。
  (ロバート・シュワルツ『苦しみを選ぶ「勇敢な魂」』
   管靖彦訳 ソフトバンク・クリエイティブ 2009.9.28.発行/P.414-417)