風のトポスノート719
人は騙らずに生きてはいけない
2009.11.4

 

 

  中沢 みんな河合さんと話すと「面白かったです」と言って帰って行き
  ますが、ずたずたに斬られているのに気づいていないのです。河合さん
  の方は斬っているのを意識していた。河合さんとの対談は楽しい、軽い
  軽いものだと思われていたでしょうけれど、そうではないのです。
  河合 帰ってみたら首がなかったとか。
  中沢 そうなんですよ。それに気づかずに死んだ人もいると思う。
  河合 臨床の人でも、河合隼雄の面接でのそういう感じを伝えてくれ
  ているなあと思う人もいるけれど、なかなか難しいですね。それは
  『臨床家 河合隼雄』には出てきますけれども。
  中沢 それは芸事全般にかかわることで、しかも立ち会いは勝負がか
  かっているものです。
   河合先生は本当に臨床の思想です。だからこの『思想家 河合隼雄』
  と『臨床家 河合隼雄』の2冊は完全に双対になっている。臨床の思
  想という思想形態があって、これは哲学ではない、前哲学形態で、哲学
  史でいえばヘラクレイトス、東洋思想の流れです。ただこの本を『思想
  家 河合隼雄』としてたてるべきだと思ったのは、そういう思想も一個
  の思想形態として取り出していくことが大事だと。
  (中沢新一・河合俊雄『思想家 河合隼雄』
   岩波書店 2009.10.15.発行/P.13-14)

河合隼雄の著作や講演集、対談などは、どれも読みやすくて、
わかった気になりやすいところがあるのだけれど、
注意深く読んでみると、そのわかりやすさの背後には、
決して言葉にはできないものがあることがわかる。

『思想家 河合隼雄』に収められている、養老猛司「河合隼雄と言葉」に
こうあるように。

  養老 ーー特に後になるほど気になってきたのは、河合さんが言葉をどう
  位置づけていたかです。臨床心理は基本的に言葉がかなり大きな役割を占
  める。特にフロイトの場合は、精神分析のかなりの部分は言語です。河合
  さんは当然、言語ではない面を重く見ている。実際に河合さんの顔を見て
  話を聞くと、話は全部言葉ですから、その言葉の空しさを非常によく知っ
  ていたのではないかと思ったのです。それであのウソツキの話があったの
  ではないか(笑)。「私はウソツキだ」とのっけから言うのは、僕からす
  ると、一種の言語の否定です。それと戦争がつながっている気がして仕方
  がない。自分がそうですから。

ぼくはひどく単純な人なので、
小さい頃は、話せば人と人はかならずわかるはずだと思っていたところがある。
当然のごとく、それは次から次へと裏切られていって、ひどくふさぎ込んだけれど、
その後思ったのは、表面ではコミュニケーション不能だとしても、
人は深いところではわかっているはずだということだった。
もちろん、それはぼくの救いにはならなかったけれども、
その影響で、ぼくはおそらく、数学とかを好むようになったところがあるのだろう。
数学であれば、ちゃんと世界は説明可能になる、と。
もちろん、その思いこみも高校の頃には半ば破綻してしまって、
別の世界観が必要になってくることになる。

ひょっとしたらそういうこともあって、
河合隼雄さんが最初数学の教師をして、
最初は夢分析などについても非科学的だと批判をしたりしていたのも、
また科学ではとらえられないものをとらえようとしたり、
それにもかかわらず科学にはこだわっていたというあたりにも、
ぼくはとても親近感をもつところなのかもしれない。

で、ぼくはどうも単純に言葉を信じるという向きには、違和感を覚えることが多い。
人は言葉を使わないで生きていくことはできないし、
言葉が人をつくるというところも大きいわけだけれど、
人はそのとき言葉を使って「騙って」いるのだという感覚が強いのだ。
だから、垂れ流しのように無自覚に使われている言葉にはある種の吐き気を覚える。
ぼくが日々仕事で生産している広告の言葉もそうしたものに入るけれど、
その違和感のままに言葉を使わざるをえないという矛盾そのものを
どのように生きるかということが、だから重要になる。
極端にいえば、こうして書いていることも含めて、
「私はウソツキだ」といったほうがよりぼくの心情に近いところがある。

では、どうしてそれでも言葉を使うかといえば、
ある種、次の引用にあるように(同同上の「河合隼雄と言葉」から)、
養老猛司が自分で自分の精神分析を行なったという例に近いのかもしれない。

  養老 ーー何度も書いてますけれど、僕は父親が死んだことを、完全に自
  分一人で精神分析して、「治った」。治ったというのは、「ああそういう
  ことだったのか」と思ったということです。
   多くの問題が、自分の頭の中の不整合なんだということが、今の精神分
  析や臨床心理の非常に重要な視点ではないか。その人の頭がどう考えても
  安定平衡点に落ちていない。なんとか落とそうとして、色々と変なことを
  する。それがある解釈をとって物語が成立した瞬間に、きれいに治るんで
  す。非常に感情的体験ですから、脳で言えば、皮質だけでなく、全体的に
  それこそ辺縁系を巻き込んで安定する。これは頭で悟るのと違って、非常
  に有効です。自分でそれを体験して、精神科の同級生に話したら、そいつ
  が言ったのが「日本で精神分析が利いた例を初めて発見した」(笑)。僕
  はそれで挨拶ができないという症状が消えたんです。

それを精神分析と呼ぶかどうかは別として、
ぼくも日々そういうことをしながら、
「自分の頭の中の不整合」を「安定平衡点」に落としていっているんだろう。
不整合が消えることはないので、
常に「安定平衡点」に落とせる「物語」を「騙り」続けながら。