風のトポスノート717
啓蒙としての教育という不可欠なプロセス
2009.9.22

 

 

生まれてから誰にも強いられることなく
自己教育できるようになれればいいのにと思う。
しかしそれは決してかなわない矛盾した願いにすぎない。
人は自分になるために他者を必要とするし、
人間が人間となるために必要な最低限の土台、
ある意味、自己教育の可能性の種をなんらかの形で、
ある意味強いられて自分に植えつけざるをえない。

それを実質的かつ象徴的に表しているのが
「言葉」を覚えるということである。
それが不十分であると
自己教育への成長が不全になってしまう。
自己教育が可能になるためには、
学ぶことのできる最低基準の主体がそこに形成されなければならな
いのだ。

その部分が、以下の引用でも述べられている「啓蒙としての教育」
である。
その部分は不可欠でありすべての前提になっているにもかかわらず
その視点が不十分であるために教育にさまざまな誤解や不全が
ときに生じてしまうことになる。
そのことを諏訪哲二『間違いだらけの教育論』は明確に示唆している。

   ひとは教育によってひとになるのだと近代の思想は語ります。
  教育によって構成されないひとはありえません。ただ、ややこし
  いのは、ひとは教育される以前もひとであることです。おとなも
  子どもも「ひと」としての尊厳は同格です。この点が私たちの思
  考に混乱をもたらします。教育認識が屈折してきます。
   教育を受ける前にすでにひとはそこに「いる」という事実が、
  ひとは「つくられる」ことによってひとになるという、「啓蒙」
  としての教育の局面の軽視につながります。近代に到達し、近代
  的な考え方が当たり前になった社会では特にそうです。実際、多
  くの人たちが学びに向かう子ども(ひと)がそこにすでに「いる」
  ことから、教育の議論を始めています。子どもはすでに学ぶ姿勢
  を持っているところから話を始めます。
   学や文化的変身に向かおうとする子どももまた、すでに教育に
  よって「つくられている」事実に無頓着なのです。子どもが学ぶ
  ためにそこに「いる」ためには、すでに教育によってその姿勢が
  構成されていなければならないことに気づいていません。
   本書で検証したように、識者の多くが教育論において躓くのは、
  子どもが自ら学ぶ主体としてそこに「いる」ことから議論を始め
  てしまうからです。ひとは学ぶべきもの、子どもは本来的に学ぶ
  ことを望むものと固く信じているからなのでしょう。(・・・)
   学ぶ者になるためにはまず「啓蒙」としての教育の局面が理屈
  ぬきに必要です。そこから子ども(ひと)は「文化」としての教
  育、そして、「真理」としての教育に進んでいけるのだと思いま
  す。もちろん、教える側や識者たちが近代(の神話)を絶対化し
  たり、単純に信じていては話になりません。近代や近代の生み出
  した神話やひとにまつわる迷信を疑う強靱な思想性が必要です。
   教育のプロセスは、これら「啓蒙」「文化」「真理」の三つの
  局面から成り立っています。しかるに、世の大方の人たちは教育
  とは「文化」と「真理」の局面であると思い込んでいます。した
  がって、その土台を成す「啓蒙」としての教育を担う教師たちの
  苦労や努力は決して理解されないのです。
  (諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書
   2009.8.20発行 P.227-229)

本書で示唆されているように、
「教育のプロセスは、これら「啓蒙」「文化」「真理」の
三つの局面から成り立ってい」るということは、大変重要なことである。

学ぶ主体が最初からいるのではなく、
まずはそこに学ぶ主体としてある「型」として
方向づけられなければならない。
点はあらゆる可能性をそこに持ち得ているかもしれないが、
点そのものは点だけでは線のベクトルを持ち得ないし
ましてや面や立体として展開していくことはできない。
本書ではこういう説明はされていないけれど、
この「啓蒙」「文化」「真理」を
「守」「破」「離」というプロセスに置き換えて
イメージしてみることもできるかもしれない。

本書の最初に、「三重苦の聖人」と呼ばれた
ヘレン・ケラーの例がひかれているが、
ヘレンケラーが「学ぶ主体」となるためには
サリヴァン先生の、ある意味暴力的な働きかけが不可欠だった。

   ひと(子ども)の個体が社会的な個人に構成されていくために
  は、個体には手に負えない外部が構築されなければならない。個
  体は思うとおりにならない外部を覚知しなければならない。自分
  の手が届かない、思うとおりにならない外部が構築(意識)され
  れば、その対極として内部(内面)が確保されてくる。それが自
  我だといわれる。
   ヘレンには内部と外部の区別ができていない。外部が決定的に
  欠けているからである。
   ヘレンの外部は自己の感覚や知覚の外延を成しているにすぎな
  い。ヘレンに対立していない。
   外部に対面しないかぎり内面は生じない。つまり、ひとの個体
  は自然には社会的な個人には移行しない。近代的個人を形成する
  「啓蒙」としての教育ではその個体が望もうと望むまいと、彼
  (彼女)を外部にある文化や規制の世界に引き入れなければなら
  ない。(P.7-8)

もしぼくが、生まれて、自分の「外部」に
否応なく、ほとんど強制的に直面させられ、
そこである種の方向性や「型」を身につけることができなかったとしたら、
今ぼくが自分なりに意識しているであろう「内面」を
持つことはできなかっただろうと思う。

本書に前編に渡って示唆されているように、
人は「学ぶ」ことができるためには
まずその最初に「啓蒙」としての教育を受ける必要があることは
確かに今いくら強調してもしすぎることはできないだろう。
「ゆとり教育」の理想もその土台なしではただの絵に描いた餅でしかないし、
「ゆとり教育」にかわって、今度は「学力向上」をめざす、
たとえば「読解力」を身につけさせようという教育にしても、
「向上」するための前提は、そこに「学ぶ主体」が
なんらかのかたちで存在するということであるし、
自分の「外部」の働きかけで「内面」が形成されているということなのだ。

だから、以下のようにヘレン・ケラーに模して述べられる現代の子どもに
必要なことは、学ぼうとするための土台づくりなのだろう。

   日本の子ども・若者たちのある特徴的な人たちは、物理的に
  「見えて」「聞こえて」「しゃべれる」にもかかわらず、ヘレン
  ケラーのように外部に文化やルールを受容する手立てを精神的に
  奪われている。外部に一度屈服していないから、全能感的な「こ
  の私」的な自己感覚の支配下にあり、外に表示し生活する「私」
  (近代的個人)になっていない。彼らを取り巻く環境に「啓蒙」
  としての教育が働いていないとも言える。(P.25)
   常識的に考えて、不登校やひきこもりの子ども(若者)たちが
  <自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在>であるこ
  とに自閉している可能性が高いことが明らかである。<ただひと
  りのかけがえのない存在>だから、自分の感覚を絶対視して、社
  会に合わせようとしない。彼らは<万人向けの有用な知識や技術
  を習得する>ことが自己のかけがえなさを脅かすと(正当にも)
  どこかで感じているのかもしれない。(P.147)

著者は不登校やひきこもりの子どもを非難しているわけではない。
実際、ぼくも少し運が悪ければ、というか状況が許されたとしたら、
ひきこもり的になってしまいかねないほうなのでなんとなくわかるのだが、
たしかに、ある種今でもぼくがひきこもり的になってしまうのは
<自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在>であると思いたいし
「<万人向けの有用な知識や技術を習得する>ことが自己のかけがえなさを脅かす」
というふうにどこかで思っているからなのかもしれないと思えるところがある。

自由ということについてもそうなのだけれど
ある意味、外部を拒否して
自分を「点」のままの状態に置いておくほうが、
自分の可能性を信じていられるのはたしかで、
へたに「直線」になろうとしたり「面」になろうとしたりしたときに
自分が傷つくかもしれないよりもずっと
自分を脅かされないでいられる。
しかし、おそらくそれは「自由」ではありえないだろう。
「自由」であるということは、
否応なく「線」であり、「面」であり、「立体」になろうとするときに
可能性として生まれてくるものなのだから。