風のトポスノート716
夢中になれる遊び
2009.9.16

 

 

   本来の子どもの遊びには目的も何もない。ましてや役に立つから
  などということもなく、ただただ、夢中になれるからこそ遊びなの
  だ。幼児教育がいけないわけではないが、そこでの遊びは、ここで
  述べてきた成長に必要なエネルギーを得るための遊びとは違うのだ
  ということは明らかにしておきたい。
   そして、これだけ小さい頃から将来役に立つためのいい刺激を与
  えているのだからきっといい結果がでるに違いない、という思いを
  子どもに押しつけすぎると、どこかで子どもがつぶれてしまう危険
  があることも忘れてはならないと思う。明確な原因があって、その
  ために子どもが問題を抱えてしまうわけではないのと同じように、
  いい刺激がたくさんあったら必ずいい結果が生まれるとは限らない
  のである。
  (岩宮恵子『生きにくい子どもたち/カウンセリング日記から』
   岩波現代新書 2009.3.17.発行 P.27)

ときおり疲弊したような感じになってしまって
まとまったエネルギーがどこからもわきあがってこなくなるときがある。
これではいけないと思えば思うほど、エネルギー回路は空転してしまう。
単なる疲れではない、エネルギーの源泉の枯渇。
たんに時間をとって休めばいいということではない。

おそらくそういうときに欠けているのは
夢中になって遊ぶことで充電されてくるエネルギーなのだろう。
そういうエネルギーが必要なのは子どもだけではない。
もちろん、子どもの場合は、そうした遊びを持てない場合、
心身の成長そのものが疎外されてしまいかねないところがあるわけだが、
大人の場合も、子どもほどに無邪気で夢中になることは難しいものの、
そうした種類の遊びを持てないと、
少しずつ心身ともに歪んできてもおかしくはない。

笑いが必要だというのも同様である。
とはいうものの、テレビなどのメディアでこれでもかというほどに
短い時間の繰り返しで「お笑い」を強要されるような種類の「笑い」には
かなり注意が必要なところもあるのではないかとは思う。

というのも、その種の笑いは巧妙な自我によって
ある種の目的をもって表現されすぎているからなのだろうと思っている。
あまりにも過剰に繰り返された「お笑い」によって
強引なまでに高揚させられた感情は、
容易にそれとは反対のものへと転化してしまいかねないからである。
それは「夢中になって遊ぶ」ような成長のために必要な種類のエネルギーと
似ているようで、逆に人を疲弊させてしまいかねない種類のエネルギーと
なってしまうところもあるのではないだろうか。
「冷笑」という類の「笑い」もまた
魂にとって必要な笑いとは少しばかり異なっているだろう。

人の魂は「7歳まで」だけ「夢の中」にいるのではなく、
それぞれの成長に応じ、「夢の中」にいる時間を必要とする。
年を経れば経るほどに、自分に対するそれなりの「意味」や「目的」などを
自分に言いきかせる割合が多くなるのが実際のところではあるけれど、
実のところ、そうした「意味」や「目的」の多くは、いわば「タテマエ」にすぎ
ない。
その「タテマエ」に合わせすぎて、自分をその型にはめこんでしまいすぎると
その反動というのは、さまざまな形で、
見えないところから襲いかかってくることになる。

そのための対策というのでもないし、
対策として可能になるようなものでもないけれど、
「夢中になれる遊び」の時間を持てるかどうかというのは
大人にとっても大変重要なところだと思う。