今思い出してみてもとても不思議な感覚だったのだけれど、 
        ぼくには小さい頃、賭け事にちょっと異常なまでの執着があった。 
        ゲーム的なことが大好きだったし、籤引きなどにも目がなかった。 
        花札なども、大人がやっているのをみてすぐに覚え、 
        ことあるごとに参加しようとした。 
        小学校の低学年の頃のことである。 
        子どものことでお金をかけてやるわけではないものの、 
        その勝敗について、燃えるような感覚があったのを覚えている。
        それが、ある種、自我的な部分の発達にも関係しているのだろうか、 
          9歳になる前頃だと思うのだけれど、 
          その燃えるような感覚がふつりと消えてしまい、 
          その後は、ゲーム的なことはもちろん、 
          宝くじ的なことにもあまり興味を引かれなくなった。 
          大人になってはじめて賭け事に狂い始めるのでなくて 
          幸いだったというのはあるけれど、不思議である。 
          ひょっとしたらぼくの魂の底のほうでそうした部分が 
          残り滓のようにくすぶっていたのかもしれない。 
        ところで、山口昌男の『学問の春.<知と遊び>の10講義』という 
          興味深い講義録が平凡社新書からでていて、 
          そのなかで、賭け事についてふれられているところがある。 
          ちなみに、本書はホイジンガの 
          『ホモ・ルーデンス』が縦軸になっている講義である。 
           日本では古代、中世から博打打ちがいて、博打打ちがみんなやくざ 
            であったというのは当たらない。中世の『古今著聞集』という本に書 
            かれてあることですが、神社で賭け事が行なわれることがあった。江 
            戸時代には神社とかお寺を勧進元として博打が行なわれていた。(…) 
             賭けがもっと広い意味で行なわれていることを言うために、少し先 
            の132頁「賭けの祭儀的意味」の節に行こう。「賽子遊びが宗教的 
            行為の一部分を形づくるのは、多くの民族に見出されることである」。 
            いま話したサイコロ遊びね。日本の神社でも行なわれる遊びが。イン 
            ドにおいては宗教的に非常に高い位置を占めている。 
            (・・・) 
             『マハーバーラタ』という物語は、パーンドゥ王のパンダワ一族と 
            ドリタラーシュトラ王のカウラヴァ一族という二つの部族の代表がサ 
            イコロで争った。それで、負けた方は領地を没収されて森の中に追放 
            されてしまった。賭け事が民族の運命を分けた。そこから始まるパン 
            ダワ一族が復権するまでの長い長い物語。(…) 
             『ホモ・ルーデンス』には続いてこうあります。 
           ゲルマン神話にも、神々が遊戯盤の上でたたかわせる遊びがある。 
             世界が整い、秩序が定まったとき、神々は賽子をふって賭けをする 
             ために集まった。そして、世界の崩壊の後、神々がふたたび甦える 
             ならば、この若返ったエーシル神族は、彼らがかつて所有していた 
             黄金の遊戯盤をまた見つけ出すであろう、という。 
          (山口昌男『学問の春.<知と遊び>の10講義』 
             平凡社新書 2009.8.11.発行 P.164-167) 
        アインシュタインは「神はサイコロを振らない」といったが、 
          神々はサイコロを降って遊戯し賭けをするというのである。 
          神々が賭けをするということはいったいどういうことだろう。 
          私たちは、その賭けにかけられた駒なのだろうか。 
          しかし、すべてが神の意図通りの必然であるならば、 
          私たちは神々の秩序のための単なる操り人形になってしまう。 
        とはいうものの、たんなる偶然に委ねられた神々の遊びで 
          われわれ人間の運命が決まってしまうとしたら、 
          それはそれで別の不条理にもとに置かれることになり、 
          人間に自由はないということにもなってしまいかねない。 
        「偶然」に関しては、 
          イーヴァル・エクランド『偶然とはなにか』(創元社/2006.2.20発行) 
          という「北欧神話で読む現代数学理論全6章」という 
          副題のついた楽しい本がある。 
          北欧神話の「サガ」は「神託」「魔術」「運命」について語っているのと 
          現代数学が「偶然」「カオス」「リスク」を問題にしているのは、 
          実は「同じ物語」を語っているのだというのである。 
          それについて少し。 
           その頃は、神託も、魔術も、運命も、カオスも、リスクも、すべて 
             「チューケー」というただひとつのギリシア語ーーこの言葉には 
             「存在」という意味もあったーーであらわされていた。わたしたち 
             人間は娯楽や知識を求めてこの「同じ物語」を読み始める。しかし 
             読み進むうちに、他ならぬわたしたち自身がその登場人物であるこ 
             とを発見するのである。 
        賭けや偶然や世界の意味やといったことをあこれこれ考えているうちに、 
          ひょっとしたら、ぼくの小さい頃の「賭け事」への熱というのは、 
          ある種、現代的な自我の力によって、 
          別の「存在」へと変容したのかもしれないという気がしてきた。 
          そういえば、その頃からぼくのなかでは、 
          ある種の科学的数学的(というほどでもないかもしれないが)な 
          思考の力が育ってきたようにも思う。 
          トカゲがしっぽを再生させる力が人間においては別の力に変容しているように、 
          かつては別の力として顕現していたものが、 
      別の力に変容してあらわれてくるということなのかもしれない。  |