風のトポスノート714
生まれ合わせについて
2009.8.23

 

 

   私の極端な内攻性は、いつの間にか私の目を、現実の社会から
  外らさせていた。三高のストライキ時、校門まで行きながら、ス
  トライキ自体に対してはほとんど何の関心をも示さなかったのも、
  その一例である。
   応援団に参加しながら、応援することの意味は考えて見なかっ
  たが、そうかといって、応援団そのものに強い批判の目を向ける
  ということもなかった。そういう点では、要するに子供であった。
  私の場合、数学や物理学、あるいは文学や哲学に対する理解力の
  成長速度と、現実社会に対する理解力の成長速度との間には、大
  きな開きがあった。そこに大きな不調和、きわ立ったアンバラン
  スがあった。
   現代の青少年の成長過程と、私自身のそれとを比較対照して見
  ると、両者の違いが余りにも大きいのに、今さらながら驚かざる
  を得ない。一口でいえば、現代の青少年は、恐ろしく早熟である
  ように見える。より開放的な社会、刺激の多い社会に、生まれ合
  わせた現代の青少年の方が、早熟であるのは当然のことかも知れ
  ない。しかしそんなら、そこには不調和はないのかというと、決
  してそうではないようだ。私の場合とは正反対のバランスが、や
  はり存在しているように見える。
  (湯川秀樹『旅人』角川文庫/P.150)

湯川秀樹には以前から親近感をもっていたけれど、
この「ある物理学者の回想」という副題の付された
『旅人』という自伝を読むのははじめてだった。

ずっと前に、たとえば学生の頃に
読んでいたとしてもおかしくはないはずだが、
この自伝が朝日新聞に連載され著書として刊行されたのが
今のぼくのような年齢で、しかもそれがぼくの生まれた頃であるのが、
今読むのにふさわしいということなのかもしれない。
そう勝手に解釈することにした。

ぼくのなかでこれまでもっとも近しく感じていた人の一人に
寺田寅彦がいるが、それよりもずっと
この湯川秀樹という人に近しいものを感じるようになった。
そして、もしこの湯川秀樹のように、あの時代に学者の家に育ち、
同じような環境で生きたとしたら、
もちろん、才能や努力を含む能力や業績などは度外視した上でだが、
このように生きるようになっただろうと
そう感じるところがたくさんあった。

上記にある「極端な内攻性」というのもそのひとつである。
今思い返しても、というか、現在もあまり改善?していないと思うのだけれど、
外へ向ける視線というのが乏しく、
そもそも大学を出て、どこかで働かなければならないというときになっても、
ふつうの人がいやおうなく身につけるであろう処世のための知識などを
まったく持ってはいなかった。
家庭環境も経済的なものも含め破綻していて、
大学半ばから学費を含め自活をはじめていたりもする、
そんな環境にありながらも、まさにまったく社会への視線をもたずにいた。

ぼくが今身につけている社会性(というのがかろうじてあるとすれば)
それは生活のために働きはじめるなかで身につけざるをえなかったものにすぎない。
たとえば、公務員試験などというのもの存在を知るのは、
会社に入って、就職をテーマとするキャンペーンの企画立案のためだったりした。
それも30歳前くらいのことになる。
(いまだに、世の中で生きていくための資格取得とかいうのがピンときていない)
そうしたこともふくめて、いわゆる世の常識から
ぼくの関心事項は極端にかけ離れているし、今もそんなに変わらないだろう。
世の中では、どうして、時間とは何か?と考えるよりも、
「資格取得」とかいうことのほうに関心を向けているのか、
といったことに驚いたりしてしまう日々なのだった。

その上であえていうとすれば、
もしぼくが生まれる前に自らの運命を選択するとすれば、
今のように、学者の家系といったような環境とは無縁で、
経済的にも家庭環境においても半ば破綻した状況で
それでも学ぼう、学び続けようという気持ちだけは
決してなくさないでいよう、ということだけを自由の気概として
持ち続けたいという状況を選ぶことになっただろうという気がする。
ある適切な環境が与えられ、優れた能力も備えた状態で
そしてその上である種の業績を得るということよりも、
環境が与えられず、能力も乏しく、
ほとんど業績とは無縁であることのほうを選ぶだろうということである。

世の中で生きていくことが難しい自分であって、
しかも、そこに埋もれて自らを失う可能性が多いからこそ、
依存したくなる環境からもっとも遠い状況に自分を置いて、
そこで学ぶことこそがもっとも多くを学ぶ機会を得ることができる。

その際おそらく重要なポイントというのは、
湯川秀樹の時代にくらべ、現代という時代は、
みずからが自由であるという気概を失うことさえなければ、
学ぶということを続けることに大きな障壁が少ないということなのだろう。

おそらく現代のこの日本のような環境にいることができさえすれば、
少々経済的に貧しくても、知りたいことを知るための労力は最小限で済む。
かつて三蔵法師が山を越えてお経を取りに出かけなければならなかったような
そうした努力なしで多くの知識を得ることができるわけである。
しかしその際に重要になるのは、知識を得ること以上に、
それを選択し、さまざまな「体験」を
自らの「経験」とすることだろうと思う。
そうでなければ、情報的知識の洪水、経済的な豊かさの前で、
まさに洪水にあったようにみずからを失ってしまうことになるだろう。
そしてその洪水でみずからを失ってしまう言い訳はできない・・・。
その意味で、現代は「自我」を育てる時代だということができるかもしれない。
かつてのように、この肉体のなかに植えられた自我の種を育てることなくして
高い叡智にみずからを浸して良しとする時代ではなく、
途方に暮れてただおろおろ歩くしかない時代の自我の課題。

そういう意味で、自分がいま置かれている環境というのは、
もっとも学ぶことの多い環境なのだろう、と思い、
そこで今自分がもっとも苦しく感じていることこそ
みずからが選択したものなのだということを前提に、
ときおりじっくり考えてみるならば、
今自分が何を必要としているのが明らかになるのではないか。
そんなことを思い、おろおろ今日も歩いている。