風のトポスノート713
アリを食らうアリ
2009.7.23

 

 

    ヒメサスライアリは、ほっそりとした体調一ミリメートルもない
   小さなアリだ。熱帯雨林には、体長二センチメートルを超えるよう
   な大きなアリや体中にトゲを生やしたアリ、鎌のように鋭い大顎を
   持ったアリもいる。ヒメサスライアリは、こんあアリたちの巣を襲
   うのだ。襲われるほうのアリはもちろん、無抵抗ではない。両者の
   間で、大顎で噛みつき、引きずり倒し、切り刻みあう壮絶な戦争が
   行なわれる。しかし、アリの種類や大きさ、強さにかかわらず、ヒ
   メサスライアリの襲撃から逃れることができるアリはいない。
   (・・・)
    ヒメサスライアリが襲撃するのは、林床に巣をつくるアリだけで
   はない。熱帯雨林の高さ七〇メートルにも達する林冠部にまで登っ
   て、枝から枝づたいに移動しながら、林冠のアリの巣も次々と襲っ
   ていく。こんなアリがいたら、熱帯雨林からアリがすぐにいなくな
   ってしまいそうだ。しかし、事実はその逆だ。
    熱帯雨林で大木が倒れると、ギャップ(空き地)ができる。そこ
   で種子が発芽したり、小さな木が成長し、森林が更新する。ヒメサ
   スライアリは、これと同じような役割を担っている。ヒメサスライ
   アリが大きなアリの巣を襲うことでギャップが生まれ、そこで別の
   アリが巣をつくったり、弱いアリたちが巣を大きくすることができ
   る。熱帯雨林に君臨するアリたちは、アリ族全体の繁栄を維持する
   ために、怪物のような「アリを食らうアリ」を生み出したのかもし
   れない。そこがモンゴル軍と違うところだ。
   (橋本佳明「 アリを食らうアリ 」
    『ふしぎの博物誌』中公新書 所収/P.37-42)

動物、植物、地学の話はとてもおもしろいので、
いつも図鑑など、その関係の本を一冊は鞄に忍ばせておくことが多い。
『ふしぎの博物誌』を久しぶりに読み返している。
自然の話をそのまま人間の世界にあてはめて考えるのも、
ときに変な道徳のようになってしまうので控える必要はあるのだけれど、
ときに、自然を形成するありようが
人間のことを考えなおしてみるきっかけになることがある。

人間もある部分、実際に自然の一部だし、
世界をつくっている高次の力も人間と無関係ではなく、
ひょっとしたらこれから人間が身につけていかなければならない
叡智や愛や力なのかもしれないから、
そこらへんのことを学ぶことを忘れてはならないだろうと思っている。

さて、ヒメサスライアリ。
きわめて小さなアリであるにもかかわらず、
その数と圧倒的な行動によって、
さまざまなアリの巣をまるごと襲う。
まさに、アリを食らうアリ。
一見、このアリによって他のアリが
まるごと駆逐されそうにも思うのだけれど、
実際のところは、逆に、
弱いアリたちが巣を大きくすることができたりもするということで、
アリ族の全体を考えると、ある種必要な存在だともいえるかもしれない。

このヒメサスライアリを人間にあてはめて考えるのは、
ちょっと怖いし、そんな存在がいたとしたら、甚だ困るのだけれど、
視点を少し変えてみると、
このヒメサスライアリがねらうのは大きな集団なので、
そうした集団に属さないことで、
食らわれなくてもすむ余地はあるということもいえるかもしれない。
集団と戦うのはやはり集団なのだ。

とはいえ、人間は一人では生きられない。
社会的動物なのだ。
生きていく上においては、一人だけでは生きられない。
ということは、一人で、個で、あり得ることが可能な部分を
集団から自由にしておうことで、
精神において、「食らわれる」ことから
なんとか逃れることもできるかもしれないということである。

自分のなかの集団性の部分。
食らうー食らわれるというのは、
きわめて動物的なありようや
集合部分として働きがちな無意識過程なので、
その部分をできるだけ意識化するということ。
つまり、意識魂ということでもあるのだけれど、
世の中で働いている集合的な部分に
できるだけ意識的な視線を向けることで
なんとか精神を食らわれることだけはある程度避けられるように思うのだ。

もし、自分が疑っても見なかった執着の部分が
自分の一部になってしまっていたら、
それが攻撃されたり否定されたりしたときには、
人は自らを否定しないわけにはいかないわけで、
そうならないためにも、
よく考えてみたら馬鹿馬鹿しいような集団性の部分を
いつでも切り離せるようにしておく必要がありそうである。

そしてそうした意識魂的な姿勢というのを成長させていくために、
人の集団はヒメサスライアリのように、
集団と集団で争うことをしっかり見ることから
さまざまに学ぶことが必要だということなのだろう。
その成長から人は未来へと向かう可能性も得ることができる。

だから、集団と集団が、なんらかのかたちでバトルしているときには、
その渦中にあるのではなく、ちょいと世捨て人をすることもまた
ひとつの選択でもあるように思っている。