風のトポスノート711
「現代かなづかい」・地名の改竄などから見えるもの
2009..7.7

 

 

   「地球」や「大地」、「地方」の「地」の平仮名表記は「ち」と
   書くのに、「地面」は「じめん」と書きます。また「稲妻」には、
   なぜか「いなずま」と「いなづま」が存在します。本来、表記は
   一つしかないはずななのに、二種類の表記があるのです。
    昭和六一年に「現代仮名遣い」が制定されました。これは私た
   ちが現在使う仮名遣いです。(・・・)
    現代日本語が抱える矛盾の多くは、言語の自然な変化の中で生
   まれたものではありません。あるときは時の権力者が、またある
   ときは知識人が、あるときは外圧により、またあるときは「国」
   が、それぞれ意図を持ってねじ曲げ形を変えてしまったのです。
   (土屋秀宇『 日本語「ぢ」と「じ」の謎』
    光文社知恵の森文庫 2009.6.20.発行/P.3-5)

話し言葉と書き言葉を使い分けてきたのを、
もっとわかりやすくしようということで
明治時代以降、書き言葉を残そうという「表意派」と
発音に基づいて書くようにしようという「表音派」がさまざまにバトルし、
結局、第二次大戦後、表音派の考え方にそった
「現代かなづかい」が生まれたのだけれど、
その表記にはさまざまな矛盾が生まれることになった。

一見、表音派のいうことはもっともらしく思えるところもあるものの、
その実、現代日本語は、さまざまな矛盾を抱えてしまうことになった。
その経緯などが本書を読めばよくわかる。
簡単にいえば、次のようなことである。

    国語に限らず戦後日本の教育における欠点は、何でもかんでも
   合理性と能率を重視している点にあります。面倒でも、大事なも
   のはきちんと教えなければいけないという発想が欠落しているの
   です。これは社会全体にも通ずることです。(P.28)

「何でもかんでも合理性と能率を重視」してきたのは、
日本語表記だけではなく、「地名」にも及んでいる。

谷川健一『日本の地名』(岩波新書1997.4.21発行)の「結語」を引く。

    地名の改竄は歴史の改竄につながる。それは地名を通して長年
   培われた日本人の共同感情の抹殺であり、日本の伝統に対する挑
   戦である。一九六二年に自治省が「住居表示に関する法律」を公
   布施行して、地名改変を許容し奨励したことによって、戦後日本
   の大幅な改悪が急激にはじまった。

ある程度の合理化や能率化が重要なのは理解できるものの、
そうした合理化や能率化が、むしろもっと多角的多視点的な観点からみると、
むしろ、非合理的、非能率的な部分を多くもっている場合が多いことが
理解されないまま、近視眼的に「お国」の施策として実施されるというのは
やはり愚かなことのように思える。
南方熊楠が神社の合祀に反対したというのも、同様のことだろう。

合理化、能率化を図ろうとしたのも
「良かれ」と思う「善意」から発したことなのかもしれないのだけれど、
合理的にするに適した部分とそうでない部分の違いを
理解することができないまま、事を急いでしまったのだろう。

ちょうど、先日から読み返している
シュタイナーの『マクロコスモスとミクロコスモス』のなかに、
人間の個体化された部分とそうでない部分の違いについて
次のような示唆がある。

   人間の喉頭部は、また不完全な発達段階に留まっています。現在の
   発達段階における人体の中で最も完全に発達しているのは、自分を
   「私」と呼ぶことのできる能力です。(・・・)
   しかし喉頭部の能力は、(…)「私」と結びついていません。(…)
   言語は人間の個体化された部分ではありません。言語は、自我が前
   生から今生へと、自分のものとして持っていけるようなものではあ
   りません。(…)言語は思考とは異なり、「私」の個性と深く結び
   ついてはいません。言語は、人間の本来の個性を表現するためにあ
   るのではなく、私たちは言語を他の人たちと共有しているのです。
   私たちは言語の中に生まれ落ちます。言語は外から私たちのところ
   にやって来るのです。(・・・)
   言語は霊の働きです。もしそうでなかったら、人間の霊性がその中
   でみずからを表現することはできなかったでしょう。喉頭部が霊感
   に充ちた音を響かせなかったら、人間の魂の内面を歌の力によって
   表現することはできなかったでしょう。喉頭部は霊の働きを表現す
   る器官なのです。しかし個的な霊の働きを表現する器官なのではあ
   りません。喉頭部という器官は、人間を集合魂に組み入れるのです。
   この器官は集合魂を個的なものにまで引き下ろすことはできないの
   です。(筑摩書房/P.297-299)

ある種の高次の意味での集合的なあり方に根っこをもったものを
機械を合理的に設計・操作するようなかたちで
変えてしまうような発想だけを言葉に持ち込んでしまうと、
そこにはさまざまな問題が生じてくることになるのだろうと思う。
そして、「ぢ」と「じ」の謎のように、
結局は、わざわざ意味のない矛盾を抱えてしまうような
ことになってしまうことになってしまう。

おそらく、人間が「個」として対応できる範囲のことと
「個」をこえたところで与えられるものの違いのことを、
もちろん、集合的な蒙昧への注意は欠かさないようにしながらも、
きちんと踏まえておく必要があるということなのだろう。