伊丹/結局切れてる切れてないか、ということですよね えーー父親が 
             出現しないから母子が切れない、母子が切れないから自他が切れてい 
             ない、従っていつまでも自他未分化であり、対決ということを枠組み 
             として持っていない。だから過去との十全な対決なしで思想を摂取す 
             る。摂取した思想も、現実と十全に対決させて、それによって検証し 
             ていくことをしない。結局母子関係的な心の枠組みが、現実と思想と 
             をすっぱり切ることを許さないんですね。切れないから、断絶もなき 
             ゃ、対決もなきゃ、その緊張関係を通じて行われる内面化というもの 
             もないわけで、従って、意味の運動が出発しない。 
             (佐々木孝次+伊丹十三『快の打ち出の小槌』朝日出版社/P. 261-262) 
        マタイ福音書にこうある。 
          「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。 
          平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」 
        キリストのもたらす剣は血縁関係を切る剣でもある。 
          日本でいえば、自他未分のままを容認する母子の融合を切る剣である。 
          つまり、その剣によって成立する断絶や対決によって 
          はじめて内面化が可能となり、「個」が成立する。 
          そして、その「個」の成立によって「愛」への道が開かれる。 
          そして、「意味の運動」も、「歴史」もそこから出発する。 
        シュタイナーの示唆した精神科学やキリスト認識を得るためにも、 
          そのことは基本的な前提として必要な段階であり、 
          それなしでは、まさに言葉通り、なにも始まらない。 
          「意味の運動」も、「歴史」も始まることができないのだ。 
        天と地を理解するためには、 
          まず天と地を分かたねばならないし、 
          天と地を結ぶためにも、 
          結ぶ前提として、 
          天は天とならねばならないし、 
          地は地とならねばならない。 
        愛するためには、剣が必要である。 
          我と汝のあいだに剣が必要である。 
          母子融合的関係を切り裂く剣が必要である。 
          そして我と汝は愛することができるし、 
          母と子は、他者となることで、 
      個と個として友愛的な関係をむすぶことができる。  |