風のトポスノート710
「意味」の運動を出発させること
2009..7.6

 

 

   伊丹/結局切れてる切れてないか、ということですよね えーー父親が
   出現しないから母子が切れない、母子が切れないから自他が切れてい
   ない、従っていつまでも自他未分化であり、対決ということを枠組み
   として持っていない。だから過去との十全な対決なしで思想を摂取す
   る。摂取した思想も、現実と十全に対決させて、それによって検証し
   ていくことをしない。結局母子関係的な心の枠組みが、現実と思想と
   をすっぱり切ることを許さないんですね。切れないから、断絶もなき
   ゃ、対決もなきゃ、その緊張関係を通じて行われる内面化というもの
   もないわけで、従って、意味の運動が出発しない。
   (佐々木孝次+伊丹十三『快の打ち出の小槌』朝日出版社/P. 261-262)

マタイ福音書にこうある。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」

キリストのもたらす剣は血縁関係を切る剣でもある。
日本でいえば、自他未分のままを容認する母子の融合を切る剣である。
つまり、その剣によって成立する断絶や対決によって
はじめて内面化が可能となり、「個」が成立する。
そして、その「個」の成立によって「愛」への道が開かれる。
そして、「意味の運動」も、「歴史」もそこから出発する。

シュタイナーの示唆した精神科学やキリスト認識を得るためにも、
そのことは基本的な前提として必要な段階であり、
それなしでは、まさに言葉通り、なにも始まらない。
「意味の運動」も、「歴史」も始まることができないのだ。

天と地を理解するためには、
まず天と地を分かたねばならないし、
天と地を結ぶためにも、
結ぶ前提として、
天は天とならねばならないし、
地は地とならねばならない。

愛するためには、剣が必要である。
我と汝のあいだに剣が必要である。
母子融合的関係を切り裂く剣が必要である。
そして我と汝は愛することができるし、
母と子は、他者となることで、
個と個として友愛的な関係をむすぶことができる。