風のトポスノート709
世界認識の鏡像段階
2009.7.6

 

 

   佐々木/ラカンのいう鏡像段階というのも、幼児が鏡に向 かった時の
   動作を観察して、その幼児の中で何が起こっているかを考え たわけで
   すが、普通、鏡像段階というのは三つの時期に分けられる。 つまり、
   鏡の中の像を見て、誰かがそこにいると思う時期、次に、鏡 の中の像
   が像に過ぎないと判ってくる時期、最後に、その像が自分の 像だとわ
   かる時期、ですね。これを第一期、第二期、第三期というふ うにいい
   ますと、
         第一期 他者の実像
   鏡像段階  第二期 像は像である
         第三期 自分の像への同一化
   ということですね。
   (佐々木孝次+伊丹十三『快の打ち出の小槌』朝日出版社/P.130)

この「鏡像段階」というのはとても有名だけれど、
これを私たちがふつう世界を認識する段階としてとらえなおしてみることで
世界に対する新たな見方、ポジションを得ることができる。
(もちろん、以下の視点は、ラカンとかとには何の関係もないのだけれど)

私たちのまわりの世界を鏡に映った世界だととらえてみる。
私たちはその鏡を見て、それを世界だと思っている。
もちろん、そこには私たち自身の身体も含まれている。

第一段階は、それらの鏡に映った世界を
「世界の実像」であると信じて疑わない。
世界にはその鏡に映って見えるものしか存在しないと思っている。

第二段階では、私たちのまわりの世界は
ほんとうは「実像」ではなく、
鏡に映った「像」なのだということに気づく。
「実像」のように見えていたものは、
いわば「マーヤ」だったのだ、と。

第三段階では、その鏡に映っている世界の像は、
たまたま映っているたんなる像なのではなく、
自分の像なのだということに気づく。
だから、その像は像ではあるけれど、
すべて自分と密接に関係している、というか
自分が描き出したともいえるものなのだ。
はじめは、そこに映っている山はたんなる山だと思っていたら、
その山こそは自分であって自分であることが山なのである。
その意味で、自分を攻撃してくる存在がいたとしても、
その存在そのものが、自分の像なのである。
だから、真に愛すればあなたは真に愛され、
憎しみを世界の像に放てば、世界は憎しみの像に満ちてくる。