風のトポスノート708
前エディプス期を脱すること
2009.7.6

 

 

伊丹十三は1981年に「モノンクル」という
精神分析/現代思想の雑誌を刊行している(全6号)。
(いちおう手元にはその頃のものがすべて残っていたりする)
その前年の1980年には、朝日出版社のレクチャーブックスとして、
ラカンの研究者である佐々木孝次との間で
『快の打ち出の小槌/日本人の精神分析』という対談集/講義集がでていて、
その前には、唯幻論の岸田秀と『保育器の中の大人』という
同じレクチャーブックスの対談集/講義集がでている。

フロイト/ラカンものなどを読んでいると閉塞感を感じてしまうところがあるの
で、
(実際、先日から久々そこらへんのところを見直していても同じくそう思う)
敬遠しがちなところがあるのだけれど、
伊丹十三という人がフロイト/ラカンをガイドとしながら、
どんなふうに「日本人の精神分析」的な視点を得ていたのかに興味を覚え、
岸田秀ものは、もういいやという感じもするので、
30年近くぶりになるが、『快の打ち出の小槌』のほうを読み返してみた。

メインテーマは、要は、日本人には「父親」が不在であり、
母ー子関係によって前エディプス期のままの状態であるということで、
それはまさにその通りで、今もこのテーマは
日本人に再認識されなければならないであろう重要なテーマなのだけれど、
そのテーマのなかで面白かったのは、伊丹十三は42歳になって、
自分がやっっと前エディプス期を脱したという話。

   伊丹/だからねえーーなんていいますかーー結局いかにして前エディプス期
   から一歩踏み出すのかーー日本人が父親を発明し損なった文化であるとする
   なら、一体何がわれわれをエディプスの通過へ追いやってくれるのか、とい
   うことでしょうね。僕の場合ーー僕はまあ、知的な人間でもなければ、知的
   であるべく訓練された人間でもありませんけれども、こうして恐ろしげもな
   くお話がうかがえる唯一の根拠はね、自分の内部にある双数的関係性が、あ
   る時突然砕け散ってね、いわば前エディプス期から次の世界へ一歩を踏み出
   したという、私にしてみれば非常に記念碑的な体験を持っているからです。
   何年か前に岸田秀さんの『ものぐさ精神分析』(1977年)を読んでいた
   時なんですが、彼の唯幻論そのものもさることながら、巻末に「私の原点」
   という短い文章がありましてね、彼が自分の生い立ちを語っている。その中
   の短い一説に非常なショックを受けて私の自我が組み変わった、という体験
   があるわけです。その体験の意味というのが長い間、はっきりしなかったん
   ですが、今日お話しをうかがっていると、結局、前エディプス期を脱したと
   いうことだったんじゃないか。私がショックを受けた文章というのは、岸田
   さんが自分の母親との関係を徹底的に分析した体験を語っているくだりなん
   ですが、つまり、自分と母親との関係を分析してゆくうちに、今まで慈愛に
   満ちていた母親がですね、なんていいますか、要するに、自分の感情を満足
   させるためには子供を道具に使って恥じない、しかもそれを無自覚にやって
   いる恐るべき女として姿を現わしてくるんですね。「私は食べないでいいか
   ら、お前おあがり」なんていって、いかにも自己犠牲的に子供に食べ物を与
   えていた、そういう母親の行動の背後に潜む欺瞞性というものを、彼は徹底
   的に白日のもとに曝すわけですね。こうして彼は自分が現実であると思い込
   んでいたものが、実は母親に押し付けられた幻想に過ぎなかったのだという
   ことを悟ってゆくーーこれを読んで僕は突然世界が変わったんです。母親に
   対してこういう態度をとってもいいのか、という衝撃が、私の中の母親に対
   する罪悪感を粉砕し、私の中の母子関係が一ぺんに崩れ落ちたーー母親とい
   っても、具体的な母親その人ではなくて、私の中の双数的関係性そのもので
   すね、そのから私は突然解放されて外へ出てしまったーーということは、僕
   はその時四十二歳だったわけですから、なんとまあ四十二歳になってやっと
   前エディプス期を脱して、その後、自力でエディプスを通過しつつあるトー
   まあ、完全に通過できるかどうかは今後の問題でしょうがーーそれにしても、
   中年でエディプスを脱却するというようなことがありうるのだト、しかもそ
   れは、日本においては幸運なほうなのだト、いうことが、とりもなおさず日
   本人の母子関係性と、それを引き裂いてくれるべき父親の不在という構造の
   根の深さを物語っていると思いますね。(P.236-237)

上記引用にある岸田秀の「私の原点」の話は覚えているが、
ぼくのばあいは、そりゃあそうでしょう、という感じであって、
伊丹十三のようなショックを受けることはなかったのだけれど、
「私の中の双数的関係性」を自覚する必要性が
とくに日本人にはどうしても必要で、
そのプロセスなくして自我を成長させることはできないだろう
ということは重要なポイントだろうと思う。
この講義のなかでいえば、「双数的関係性」のなかでは
「意味の運動」が起こりえなくなるわけである。
つまり「言葉」が世界のなかで明確な意味として立ちあらわれることができない。

たとえば、家庭のなかで旦那が奥さんにむかって「おい」といえば
なにか欲しいものが自動的にでてくるような信じられない世界(!_+)。
日本の家庭には、母親と子供、子供と化した父親しかいないといわれるゆえん。
だからそうしたことに意識的になった女性が、「勉強」して、
今度は自分の「自我」をもてあまして暴走してしまったりもする。
まあ、幼児化した男よりもいいかもしれないけれど、
実際は同じものの裏ー表という感じではあるんだろうなというふうに見える。

それはともかく、面白かったのは、
そうしたことは当然クリアしていたようにも思える伊丹十三が
四十二歳になってそのことに気づいてショックを受けたということ。
しかし、伊丹十三は1933年生まれということなので、
ほとんどぼくの親の世代であるということを考えれば、肯けるところでもある。
しかし、世代における差はとりあえず外して考えるとしても、
その四十二歳というエポックと、
伊丹十三が突然自殺したのが六十三歳であることを考えてみると、
自我の成長において、ある種の壁というか変容の節というかが、
ある種の危機を伴った形で訪れるのではないかと思われるところがある。
シュタイナーの示唆している七年ごとの成長ということにも
おそらく関係してくるのだろう。
たしかに自分の場合を考えても、七年ごとでとらえてみれば、
自分なりのさまざまな成長と危機といったものが見えてくるようにも思う。