風のトポスノート706
足許にあってそれを忘れているもの
2009.6.30

 

 

   ほんとのところよく分からない、とほんとうに思うようになるのが、
  「シニア」という季節なのかもしれない。
   (・・・)
   「各人にとってもっとも遠いもの、それは自己自身である」(ニーチ
  ェ)、「モードとは無秩序に変えられるためにある秩序である」(ロラ
  ン・バルト)、「哲学をばかにすることこそ真に哲学することである」
  (パスカル)というふうに、哲学者たちはつねに最後のところで逆接的
  な語りを強いられてきた。あるいは大森荘藏。かれは物の表面、他人の
  意識、そして死、この三つはひとの認識の限界にあり、ついに比喩によ
  ってしか語りえないとした。
   そのような亀裂は思考を追いつめた果てに見いだされるものではない。
  それらはわたしたちの足許にある。足許を走っているのに、わたしたち
  はそれらを忘れている。そのような亀裂を一つ一つ、これからなぞって
  ゆきたい。
  (鷲田清一『シニアのための哲学』NHKこころをよむ2009年7月〜9月)

わからないことをわからないといえること。
いや、そのまえに、自分がわからないということに気づくこと。
たぶん、そのことはとてもむずかしいことなのだ。

自分の顔は、鏡に映せばみることができるものだから、
自分の顔がどんなかわかっているように思っていたりもするのだけれど、
自分で自分の顔を直接見ることはできない。
だから、自分が写っている/映っているものをみて首を傾げたりする。
自分の声というのも同じだ。
自分の声はいつも自分で聞いているように思っているけれど、
録音された自分の声を聞くと、違和感を感じてしまう。

ひょっとしたら、自分に向けた視線というのは、
宇宙の果てまで行ったその先の複素数時空の虚にまで反転して
ようやくなにがしかのものをとらえることができるのかもしれない。
だから、「あなたのことがわからない」よりもずっと
「わたしのことがわからない」というのがほんとうのところかもしれないのだ。

蠅に蠅取り壺から出ることを教えるのが哲学である、
そういったのはヴィトゲンシュタインだったか。
ぼくが蠅だとして、
ぼくは蠅取り壺にいることに気づいているのだろうか。
ほんとうは出口がすぐ近くにあるのかもしれないのだけれど、
まずぼくは蠅取り壺の外の世界があるということを知らなければならない。
少なくともぼくは今自分のいるところのことを
「ほんとのところよく分からない」というふうに思えるようになる必要がある。
「お金がすべてだ」という人が、
「ひょっとしたらお金はすべてじゃないのかもしれない」と思えるように、
「死んだらおしまい」だという人が、
「ひょっとしたら死んでもおしまいじゃないのかもしれない」と思えるように。

さて、鷲田清一というのはとてもおもしろい哲学者で、
この『シニアのための哲学』には、
「ほんとのところよく分からない」ことに気づくことのできる
いろんなテーマについて考える糸口が置かれている。
その糸をひろって辿っていくうちに、
その糸のはしっこが自分につながっていることを見つけて、
笑うなり、驚くなり、怖がるなりできれば、いいのだろうと思う。
必要なのは、毛糸玉でできていた自分の糸をどんどん引っ張っているうちに、
蛇が尾をのみこむように、蛸が自分の脚を食って消滅してしまうように、
その果ての世界を覗き込む勇気を持つということなのかもしれない。