風のトポスノート705
「信じられない」ものをあえて見ること
2009.6.29

 

 

   人間という存在は、ああしろこうしろと言われるのが大好きなくせに、
  言われたことをするまいと必死になる方がもっと大好きときてる。である
  からして、まず最初にそのことを申しつけた人物を憎むという、わけのわ
  からないことが起こるのである。
  (カスタネダ『呪術の彼方へ』より)

自我は矛盾に満ちている。

権威が好きなことと
権威を引きずり下ろすことのどちらも好きだ。

とはいえ、そうした表向きの打算によって成立している権威ではなく、
自分の自我のバランスをかろうじてたもたせている支点を支えている、
自分の深い存在理由を支えている権威については、
自分のなかではほとんどタブー視されていて、
歯の治療のときにわずかにふれても痛烈に痛むように、
その権威がくずれてしまうと、自我の存立さえ危うくなるほどだ。

だから、できるだけその近くには近寄らないようにし、
深い無意識のなかに眠らせておくほうが平和だともいえるのだけれど、
おそらくそこらへんのことはカルマ的連関とも深く呼応しているところがあって、
ときに、いやしばしば、それにあえて近づくように、
自らが仕掛けてゆくことさえある。

自分が勝手に投影していた人に
いわば「裏切られる」ようなことが起こりえるのも、
そうしたことのひとつかもしれない。
幸いぼくはそういう「裏切られた」というほどの体験はないのだけれど、
その小さいバージョンというのは、たとえば職場などでもよく起こることで、
時間を守るとか、規則を守るとか、いった、
それくらいはわきまえているだろうと思っていることに対して、
信じられないような態度をとる人がいたりもする。
そんなとき必要なのは、それに対して、適切な対処をすることなのだけれど、
重要なのは、そのときの自分の「反応」、
「信じられない」と感じた自分の感情というか信念の枠組みというか、
そうしたものがどういう形をとっているのかを
自分なりに再認識するということなのだろう。

それはとても些細なことではあるのだけれど、
その再認識のための時間を繰り返しとることで、
自らの自我の、先に示唆した支点の部分を
垣間見ることができるときもあるように思う。
しかも、あまり極端な危険を冒さないで。

ひとことでいえば、
自分の強固な「こだわり」「執着」ということでもあるのだけれど、
それを偽装させている下手な道徳的な部分を取り去ってみたときの、
ある種、赤裸々な姿とでもいえるだろうか。
シャドー、アニマ、アニムス、エッジ・・・、
そういった言葉でも表現できるかもしれないもの。

日常の自分のさまざまな「反応」を少し自省してみるだけで、
そこらへんのどろどろした未発達な部分というのは、
たくさん垣間見ることができる。
見たくはなかったさまざまなイザナミたち・・・。
でも、振り返らざるをえなかったその影たちに光をあててみると、
その大きな混乱に満ちた動揺の狭間で、
産声をあげている小さなものもまた見えてくるのかもしれない。