そもそも、いったいなぜキリストの身体なのだろうか。身体というのは、 
            この宗教にとって、重要でも本質的でもないばかりか、むしろ忌避されるか 
            別紙されるべきものではなかったのか。大切なのは、身体ではなくて精神、 
            肉体ではなくて霊魂ではないのか。そういう疑問の声が皆さんからあがって 
            くるのが、いまにもこの耳に届いてきそうである。だが、本当にそうなのだ 
            ろうか。 
             本書でわたしが示そうとしたのは、逆に(キリストの)身体をめぐるイメ 
            ージこそが、この宗教ーーとりわけカトリックーーの根幹にあるということ 
            である。受難、磔刑、復活という出来事が、キリスト伝のまさにクライマッ 
            クスをなすというのが、何よりもその雄弁な証拠であろう。ほかでもなくそ 
            の身体は、西洋の人びとの、宗教観のみならず、アイデンティティの形成、 
            共同体や社会の意識、さらには美意識や愛と性をめぐる考え方すらも根底で 
            規定してきた、もっとも重要な契機だったといっても、けっして過言ではな 
            いのである。 
            (岡田温司『キリストの身体』中公新書1998/2008.5.25発行) 
        最後の晩餐のシーン。 
          イエス・キリストは、食卓で弟子たちに、 
          パンをちぎってそれを自分の肉だといい、 
          杯のワインを自分の血だといって、与える。 
          そして、イエス・キリストは、その肉体を十字架に磔にされ、 
          死に、そして復活する。 
        仏教というか釈迦と比べてみると、 
          その違いは明かで、 
          釈迦は、涅槃にいくのを断念し、 
          比較的長くこの世に留まって法を説く。 
          この世は、苦であり、そこから解脱するために修行がある。 
          そして、愛は渇愛の部分、つまり執着であるところが強調され、 
          その克服が説かれたりもする。 
        つまり、キリスト教では、肉体は復活をまつものであり、 
          仏教では、執着に満ちた肉体を脱することを説いているわけで、 
          その部分を対照すると違いがクローズアップされる。 
        ぼくの場合も、日本で生まれ育ったためだろう、 
          仏教的なありようのほうを自然に受け取ることができる。 
          異常なまでに「肉」や「血」をイメージさせられるキリスト教には 
          かなり違和感をもたざるをえないし、 
          その人格神的なイメージにもついていけないところがある。 
          ・・・というのが、基本になっているのだけれど、 
          シュタイナーのキリスト観にふれてから、 
          感覚的にはいまだにちょっとキリスト教的なありようには違和感はあるものの、 
          シュタイナーの示唆するキリスト像には深く納得させられるところが多い。 
        実際、仏教では、どうしても「この世は涙の谷」にならざるをえない。 
          菩薩となって衆生を救うために涅槃に行くのを断念し 
          この世に帰還するにしても、この世が「涙の谷」であることに変わりはない。 
        しかし、キリストにおいては、 
          そしてそれを範とする人間においては、 
          地上における肉や血こそが、その意味を深めていく。 
          地上は、修行場であることのみを意味しているのではない、 
          もっと積極的な意味がそこに加えられる。 
          愛と知もその理念においては切り離されはしないはずだ。 
          とはいえ、それはあくまでも可能性としてであって、 
          現状のプロセスとしていうならば、 
          地上における肉や血は、アーリマンとルシファーの修羅場のように 
          なってしまっているようにも見える。 
          しかし、それでもなお、そのプロセスの持つ意味を 
          今この自らの肉と血において体験する必要があるのだろう。 
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