風のトポスノート703
社会の底が抜けていること
2009.5.27

 

 

  キーワードは、「社会の底が抜けた」です。
   実は、どんな社会も、社会がその形をとるべき必然性はありません。
  つまりは恣意的で、その意味では「底が抜けて」います。この恣意性は
  消去できません。しかし、従来は恣意性を乗り越える、あるいはやり過
  ごす働きを、多くの社会が内蔵してきました。それが壊れてしまったの
  です。
   僕が専門にしている社会システム理論では、どんな社会も「底が抜け
  て」いることを、諸個人の意識に還元せずに、諸個人の意識の前提とな
  る何ものかを、システムの概念で記述します。それとは別に「底が抜け
  て」いることをやり過ごすメカニズムが壊れていく過程を、<システム>
  の全域化による<生活世界>の空洞化と記述します。どういうことでし
  ょうか?
   一九六〇年代半ばまでに、人文知の領域の学者たちの間で、“どんな
  社会も「底が抜けて」いること”が明らかになりました。それから五年
  ないし一〇年送れて、普通の人たちの間で、“社会の「底が抜けて」い
  ること”が理解されました。つまり、やり過ごしや覆い隠しのメカニズ
  ムが壊れてしまったのです。
   社会の「底が抜けて」いるという事実と、その事実に気付いてしまう
  ということは、別の事柄です。「ポストモダン化」という場合には、後
  者を意味します。分かりやすくいえば、誰もが“社会の「底が抜けて」
  いること”に気付いてしまうことが、「ポストモダン」という概念の肝
  なのです。
   なぜ、最初は人文知の領域の学者たちが、そしてやがて誰もが、“社
  会の「底が抜けて」いること”に気付いてしまったのか。理由は「郊外
  化」です。「郊外化」とは図式的に言えば、<システム>(コンビニ・
  ファミレス的なもの)が<生活世界>(地元商店街的なもの)を全面的
  に席巻していく動きのことです。
   だからこそ、まず自分に身近なところで「郊外化」が何をもたらした
  かを実感した上で、次にそれが日本の思想にーーひいては世界の思想に
  ーー何をもたらしたかを考えてほしいのです。そうした思考系列の中に
  米国(的なもの)を置く。そうすると、かつての金融大恐慌と異なる今
  回の金融危機の意味を含めて、いろんなことがわかります。
  (宮台真司『日本の論点』幻冬舎新書122/2009.4.15.発行)

宮台真司の『日本の論点』が、わりと面白いというか、
今の世の中の状況について漠然と感じていることを
コンパクトにまとめて考えるキッカケを与えてくれる。

前書きの最後にこんな言葉が置かれているのも、ちょっといい感じがする。

   僕と一緒に「この社会」を知るための旅に出かけることにしましょう。
  そう、この本で目指されているのは、いったん「この社会」の直接性か
  ら離れた上で、再び「この社会」へと向かうための、いわば「往って、
  還ってくる」旅なのです。

そう、いったんは「この社会」の直接性から離れること。
そしてもう一度還ってくること。
これをとてもとても大きくとらえるとするならば、
いったんは、「この世界」の一部であったはずの自分が
「個」としてその融合的な直接性から離れた上で、
もう一度、自分が「この世界」の一滴として帰還するということでもある。
「自由」ということが「自らの由」を自覚することでもあり、
そのために「類」としてのありようから離れる必要があるように。

本書の第二章「教育をどうするのか」で、
「ゆとり教育」の失敗について書かれているところがある。
その失敗の最大要因は「ゆとり教育」の理念が、
親や教員に理解されなかったからだという。
「従来型の暗記学習に使っていた時間の一部を、
クリエーションやコミュニケーションの能力開発に
結びつくような時間に転用しよう」
という話が、
「授業時間を減らせ」「完全週休二日制を実施せよ」というような話に
なってしまったのだという。
そして、そういうことになってしまった一つの要因が
教科書改革と連動させていなかったことにあるという。
つまりは、教科書を薄くして、時間を減らすことに短絡させてしまうことになっ
た。
マニュアルなしではなにもできない現場という実情が
そこにはあったということにほかならず、
その現状認識の甘さと、その失敗を取り返すために、
さらにアホらしいまでの手段として
「愛国心問題」やら「未履修問題」やらによって
さらに教育を中央集権化するという方向性になってしまった。

要するに、「自由にしなさい」といわれて、
自由を恐れた現場が、自由にさせないでください、
「小人閑居して不全をなす」のだから・・・ということで、
「それならば、自由をなくしてあげよう。
言うとおりにすれば、きっと良きロボットが育つだろう」
という感じになってしまったということになる。

さて、最初の「社会の底が抜けて」いることについても同様で、
社会が恣意的であることに気付いてしまって、
(自由であり得ることに気付いて)
それに耐えられなくなると、
(自由がこわい)
「マニュアル」を「システム」として導入することを渇望してしまう、
(自由はいらないから、やるべきことを教えてくれ)
ということではないだろうかと思う。
「安全・安心」を求めるためにセキュリティを強化するというのも同様である。
本来はそうでもないのだけれど、
いちどひょっとして「安全・安心」ではないのかも・・・どうしよう・・・、
と意識してしまうと、その恣意的な社会のありようを
そういうシステム化でなんとか乗り切ろうとするようになる。
いい学校に入って、いい会社に入って・・・というのも
その安心のためのシステムのひとつでもある。
というか、そう思っていないと、どうしていいかわからなくなるわけである。

しかし、こういう「社会の底が抜けて」いる状況がなければ、
人は「意識魂」を育てていくことが難しいわけで、
そこにどんどん生まれてこざるをえない「問い」を受けとめ、
その「答え」は「マニュアル」のなかには探すことができないのだ、
と気付くことができる機会が与えられたということなのだろう。