風のトポスノート702
美しいという経験について
2009.5.20

 

 

赤木明登の新刊『美しいこと』(新潮社)を見つけた。
3年ほど前にでた『美しいもの』の続編である。

「塗師」である赤木明登さんのことは、
『漆 塗師物語』(文藝春秋)という著書で知った。
それ以来、ずっと気になっている。
この人の目線から学ぶことのなんと豊かなことか。
とりあげられているのは、みんな(広い意味だけれど)職人さんで、
歳を経るごとに、ああ自分も職人さんでありたいなと思う。
そして、「美しいもの」「美しいこと」をたくさん養分にしたいと思う。

『美しいこと』のまえがきに、
「美しい」という経験について次のように書かれている。

   「美しい」といことほど、誰にでも経験できることはない。僕が初
  めて「美しい」と感じたのは、いつのことだったのか、そしてどうい
  うふうにそう感じたのか、もちろん思い出すことはできない。でもお
  そらく、「きれい」や「かわいい」や「きもちいい」や「おいしい」
  や「たのしい」や「あたたかい」や「やさしい」に近いけれど、違う、
  もうちょっと抽象的な感覚として、僕の中にプログラムされていたん
  だろう。でも同時に、「こわい」や「すさまじい」や「かなしい」や
  「さびしい」や「いたい」、さらには「きもちわるい」や「きたない」
  や「みにくい」の中にさえ、「美しい」ことがあるのを子どもの僕は
  知っていた。そうなるともう、「美しい」ってどういうことなのかさ
  っぱりわからなくなる。子どものころならば、考えずにすんだものを、
  大人になってからあれこれと思い悩むようになってしまったのは、い
  やはや、めんどうなものだと我ながら思う始末。考えても考えても、
  いろんな「美しい」を結びつけているのが何だかわからないのに、思
  いもよらぬところで、「美しい」を経験し、感動させられてしまうの
  で困ってしまう。いったい「美しい」って何だろうと。
  (・・・)
   だから、これだけは言うことができる。ひとつの物語が生まれる場
  所に、ひとつ「美しい」があるんじゃないかと。何かと何かが出会っ
  て、振動が生まれ、さざ波となり、新しい物語が生まれる。その生成
  の現場に「美しい」はいつも立ち会っている。喜びであれ、悲しみで
  あれ、もっとささやかなものであれ、人の心をふるわせる物語ととも
  に「美しい」は生まれ、現われて、形になったものはまた何かと出会
  い、別の物語を生み出していく。
   人が生きていくには、世界とつながる回路が必要だ。そしてそこか
  ら紡ぎ出される物語が必要だ。目を閉じて、耳を塞いで、全身を堅く
  して、世界に触れることがなければ、物語が始まることはない。
  (赤木明登『美しいこと』より)

「美しい」というのはどういうことなのか。
言葉にしようとすると、わからなくなってきたりするけれど、
「美しい」はぼくのまえに、ときに不意打ちのようにたしかに現われ、
それなしでは生きていけないとさえ思えてきたりもする。

「美しい」は「善い」とかいうことよりも、ずっと切実で、
「悪」も含めて、そうしたみんなを変容させながら、
包み込んでしまうような、そんなところがあるように思う。
もちろん、上記引用にあるように、
「こわい」、「すさまじい」、「かなしい」、「さびしい」、
「いたい」、「きもちわるい」、「きたない」、
そして「みにくい」の中にさえ、
「美しい」は見出すことができるのを、ぼくはたしかに知っている。

しかし、その「美しい」を見出すためには、
その能力を養い育てていかなければならないことを忘れがちである。
「美を求める心」について語られている小林秀雄の言葉を思い出す。

   見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。ぼんやりし
  ていても耳には聞こえてくるし、特に見ようとしなくても、眼の前に
  あるものは眼に見える。耳の遠い人もあり、近眼の人もあるが、そう
  いうのは病気で、健康な眼や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたり
  することは、誰にでも出来る易しいことだ。頭で考える事は難しいか
  も知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすること
  に、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、そ
  れは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、
  難しい、努力を要する仕事なのです。
  (・・・)
   私は美の問題は、美とは何かという様な議論の問題ではなく、私た
  ちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験が根本だ、と考え
  ているからです。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。
  美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せ
  るのではない。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は、心が感じ
  ます。だから、姿とは、そういう意味合いの言葉で、ただ普通に言う
  物の形とか、格好とかいうことではない。あの人は、姿のいい人だ、
  とか、様子のいい人だとか言いますが、それは、ただ、その人の姿勢
  が正しいとか、格好のいい体附をしているとかいう意味ではないでし
  ょう。その人の優しい心や、人柄も含めて、姿がいいというのでしょ
  う。絵や音楽や詩の姿とは、そういう意味の姿です。姿がそのまま、
  これを創り出した人の心を語っているのです。
   そういう姿を感じる能力は誰にでも備わり、そういう姿を求める心
  は誰にでもあるのです。ただ、この能力が、私たちにとって、どんな
  に貴重な能力であるか、又、この能力は、養い育てようとしなければ
  衰弱して了うことを、知っている人は少ないのです。
  (小林秀雄『美を求める心』より)

私たちのまわりに広がる世界は、
つねに私たちに語り続けているのだけれど、
それをききとるためには、その言葉を学ばなければならないだろう。
言葉を外国語のようにきくことと、母国語としてきくこととは、
まったく異なった体験であるように、
その意味やさまざまなニュアンスを感じとろうとするならば、
それを学んでいく必要がある。
そうでなければ、たとえばたんに
「この絵はむずかしくて何を描いているのかわからない」と思い、
拒否してしまうか、わかった気になりたいばかりに、
まるでこの絵を記号化して理解できるかのように思い込んで、
「この絵はXなのだ」ということで満足するような態度になったりすることになる。

橋本治は『人はなぜ「美しい」がわかるのか』で
「美しさ」と「美しい」の違いについて、
「コレコレが美である」というような「美しさ」の知識は
「美しい」がわかるということではないと言う。
至極当たり前のことだけれど、世の中の「そういうものだ」や「権威好き」は、
「美しい」はもちろんのこと、さまざまなものを
マニュアルのような知識に落とし込んで、それで満足していることが多い。
なんと貧しいことだろうか。

   ある人には「美しい」が分かり、別のある人には「美しい」が分か
  らないーー現実にはそういうことがあります。それを「なぜなのか?」
  と考えて、『人はなぜ「美しい」がわかるのか』というタイトルをつ
  けます。
   そして更に、「人はなぜ“美しい”が分かるのか?」と考える私は、
  「人はなぜ“美しさ”が分かるのか?」とは考えません。だから、
  『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という、いささかややこしいタ
  イトルになります。
   なぜそんなことをするのか? それは私が、「人は個別に“美しい”
  と思われるものを発見する」と思っているからです。
  (・・・)
   「“美しい”が分かる」というのは、「美に関する知識の獲得」で
  はありません。「コレコレが美である」という境界を明確に定めて、
  「その正解を数多く記憶することこそが美の理解だ」という教育が時
  折ありますが、私は賛成できません。「分からなければ美ではない」
  と、私は考えます。
   私は、「各人が“美しい”と感じたそのことが、各人の知る“美し
  さ”の基礎となるべきだ」と考えていて、「“美しさ”とは、各人が
  それぞれに創り上げるべきものだ」と考えています。つまり、「美し
  さ」とは無数にあるのです。あまりにも多くありすぎて、その一々を
  記憶するなんてことは、とてもじゃないが出来ないーーだからこそ、
  たんびたんびに、「美しい」と思って発見してしまう能力が重要なの
  だと、考えているのです。
  (橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』)