風のトポスノート701
メディア・リテラシー
2009.4.22

 

 

『ドキュメント・森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』が面白い。

「表現には必ず制作者の立場が反映される」というのは
きわめて当たり前のことなのだけれど、
そのことは実際のところあまり理解されているとは言い難い。
とくに「ドキュメンタリー」となると、事実をありのままに描いた
と思われがちだし、
逆にいえば、「ヤラセ」が発覚したりすると、
素朴に「ケシカラン!」ということになったりする。
もちろん、「ヤラセ」がケシカランことは確かだけれど、
では、「ドキュメンタリー」がノン・フィクションかといえば、そ
うではない。
佐藤真の言葉でいえば
ドキュメンタリーはフィクション。
現実の素材を再構成した段階でフィクションになる」
ということもいえる。
少なくとも、どんな「表現」も「客観的」であることはできない。
それは極めて素朴な幻想でしかない。
「制作者」の視点のない「表現」というのは、意味をもたないわけ
である。

『ドキュメント・森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』には
そうしたテーマについて、2006年にテレビ東京で放送された
『森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』という特別番組が
DVDとしてついている、とても興味深い本になっている。
その特別番組は、ちょっと説明しがたいのだけれど、
「ドキュメンタリーは嘘をつく」という番組の制作を
ドキュメントとして制作するという重層的なシナリオのもとに
さまざまな視点・仕掛け・嘘が盛り込まれた番組である。
ぼくにとってはとてもユーモアたっぷりな作品として見ることができた。
とくに森達也の仕掛けた演技(横柄な態度など)、とても笑える。
でも、これを見て、森達也に失望したという人もいるらしい。

森達也は「メディア・リテラシー」を「思いきり要約」するならば、
「メディアを無条件に信用するな」ということになるだろうと言う。

   最近「メディア・リテラシー」なるフレーズをよく耳にする。メディアの
  現場だけではなく、たとえば学校教育現場においても、この重要性を指摘す
  る声は、一昔前に比べれば明らかに高くなった。
   これらの場合、「メディア・リテラシー」は「メディアからの情報を批判
  的に解釈する」などと訳すことが多いようだ。ところが「リテラシー」のそ
  もそもの意味は、実は「識字」と素気ない。だから反意語のイリテラシーは
  非識字。つまり文字を読めない人を意味する。世界にはまだまだ識字能力を
  体得していない人は数多い。教育先進国の日本でも、文盲がほとんどいなく
  なったのは戦後である。つまり本来の「リテラシー」は、「批判的に」メデ
  ィアに接することではなく、そもそもメディアを理解できるかどうかが、重
  要なポイントだったのだ。
  (・・・)
   分かっているつもりでメディアからの情報をすべて真に受けてしまう大人。
  そんな大人を核とした対象に、メディア・リテラシーの重要性を伝える必要
  がある。
  (『ドキュメント・森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』
   キネマ旬報社/2009.4.10.発行 P.8-14)

要は、メディアをちゃんと理解する必要があるということである。
メディアについて鵜呑みにすることでもただただ批判的になるとい
うことでもない。
それはメディアを理解するということにはならない。
メディアにおける表現とはいったい何なのかを考え、理解し、
それとともに、その可能性と不可能性について意識的であること。
そこから始める必要があるということ。
「嘘ー本当」という二元論で白黒つけてしまうことはできないのはもちろんだし、
メディアにおける表現を受容する私たち自身の視点も含めて、
その重層性、両義性(どころか多義性)、曖昧さ、
視点に応じた意味づけの可能性・・・などなどを常に検討する必要がある。
おそらくそれが「メディア・リテラシー」ということなのだろう。

さて、この本の最初に、森達也の書いている
「ファシズム」についての話にはどきりとさせられる。

   ファシズムがこの世界に現れたのは、第一次世界大戦が終了した20世紀前
  半ということになる。つまりとても新しい概念であることに気づく。ならば
  これ以前の歴史で、ファシズムなる政治形態は地球上に存在しなかったのか?
   結論から先に書く。存在しなかった。なぜ存在しなかったのか? そして
  ならばなぜ、ファシズムは忽然と、20世紀初頭に現れたのか? その理由を
  これから考えたい。
   国家の構成員である国民が、主語を一人称単数から「国家」や「我々」な
  どの複数集合代名詞に置き換えたときに、このファシズムは萌芽すると僕は
  考えている。主語を「大きくて強いもの」に依拠すること、つまり主体を失
  えば、当然ながら述語は暴走する。威勢が良くなる。近年では「許せない」
  などの述語がこの典型だ。
  「許せない」はやがて、「やられる前にやれ」や「成敗せよ」などの、より
  猛々しくて勇ましい述語にスライドする。ヒトラーの側近中の側近で、一度
  はヒトラーから後継者に指名されたヘルマン・ゲーリングは、1946年のニュ
  ルンベルグ裁判で、以下のように証言したと伝えられている。
  「もちろん人々は戦争を望まない。だが人々を戦争へ導くことは、実はとて
  も簡単だ。ただ人々に向かって『君たちは攻撃されかけている』と伝え、平
  和主義者たちに対しては、その愛国心の欠如を糾弾し、国を危険に晒したと
  攻めればよい。別にドイツだけではない。どこの国であろうとこの方法は有
  効だ」
  (『ドキュメント・森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」』
   キネマ旬報社/2009.4.10.発行 P.9-10)

ファシズムは、「国民が、主語を一人称単数から「国家」や「我々」などの
複数集合代名詞に置き換えたときに」起こり、
その際に、マスに働きかけるメディアが極めて重要な働きをする。
私からあなたへ、君へ、ではなく、
我々からあなたたちへ、君たちへ、と伝えられるメッセージ。

このゲーリングの証言は、
戦争はもちろんのこと、戦争以外でも
現在においても、いや現在においてますます、
恐ろしいまでにあてはまっていることがわかる。
被害妄想さえもが、正当な危機管理意識として成立してしまう。
「そんなことをしていると大変なことになってしまうぞ。
そうなってしまわないうちに、こちらから先に手を打たなければ」
というわけである。
そして、被害妄想は被害妄想のリアクションを生み、
そういう共同幻想の連鎖がさまざまな現象を次々に生み出していく。

その意味でも、メディアから日々垂れ流されている情報を
どのように理解すればいいかということは極めて重要な問題になる。
そのためにも、自分を「私たち」というような
「複数集合代名詞」に置き換えるのではなく、
「ぼくは」「私は」という「一人称単数」として位置づけ
そこからメディアを理解すること、
そしてさらに、自分以外の「一人称単数」からの視点も含めた
理解の可能性を常に考えるようにする必要があるだろう。
少なくとも、自分を「私たち」のような「複数集合代名詞」として
位置づけたときの、その自分をきちんとふりかえることのできる思考力を
失ってはいけないことだけは忘れてはならない。