風のトポスノート700
エレジー
2009.4.19

 

 

今回は、南博の"Elegy エレジー"(2006)というアルバムの
「プロダクション・ノート」から。

南博は1960年生まれのジャズピアニストである。
南博のことを知ったのはつい最近のこと。
『白鍵と黒鍵の間に/ピアニスト・エレジー・銀座編』 (2008.5.20)で
まず名前を知ったもののそのままになっていた。
(その続編『鍵盤上のU.S.A/ジャズピアニスト・エレジー・
アメリカ編』もつい先日刊行されたところ)

南博にたどり着く前に、菊地成孔というサックス・プレーヤーがくる。
数年前に、"DEGUSTAION A JAZZ"というアルバムを聴いたものの、
なんだか多血で該博というかペダンティックにさえ感じるような
アーティストがいるものだという印象のままだったが、
少し前に文庫化された
『東京大学のアルバート・アイラー/東大ジャズ講義録』を読んで、
ちょっと見方を変え、その後、今も継続中だけれど、
菊地成孔の演奏活動や著作活動などから
さまざな刺激を受けるようになった。

そこで、南博がでてくるのだけれど、
まず最初に、発売されたばかりの
菊地成孔×南博のアルバム"花と水"がきて、かなりぐっときた。
それで南博関連のアルバムを漁り始めたのだけれど、
そのなかで、"Elegy エレジー"にたどり着く。
菊地成孔も書いているように
「誤解を恐れずに言えば、この作品は南博の鬱性が生んだ傑作である」。

ということで、エレジー、そして悲しみということについて。
この項は、「トポスノート」のちょうど700番目にあたるので、
ぼくにもっとも近しいテーマがふさわしいと思ったわけである。

  悲しみとは何だろうか。あまりにも悲しい時、人は息を呑む。そのまま
  息ができなくなってしまうこともある。人間にとってメランコ リーとは
  何だろうか。この世を構成しているもの、不条理、背理、悲しみを通り
  越してしまうような矛盾、当たり前のように起こる理不尽なこと、諦観、
  人間が背負わされた数々の苦難、これらは何のためで、誰の作為なのか
  と、生きていれば日々感じざるを得ない。悲しみは沈潜する。心の奥へ。
  心の底という場所は、すごく柔らかくできているのではないかと思う。
  少なくとも僕の心の奥底は、とても柔らかくできていて、悲しみがふわ
  りとその奥底に沈潜する。それらが知らぬ間にたまってくると、メラン
  コリックな一種の雰囲気が醸造される。底知れぬ孤独を感じるのはそん
  な時である。

  癒しとは何だろうか。「癒される」とされる音楽や、大自然に癒しを求
  めるなど、結構なことだが、本当にこの奥深い心の中は、無意識の部分
  も含め、そういうことで、本当に癒されるのだろうか。僕はそう簡単に
  行かないと思う。たとえそういう場所にいるあいだや音楽を聴いている
  あいだ癒されたような気がしていても、根本的な気分は変わらないと思
  う。そういう場所や音楽から離れてしまうと、いずれ癒されたという気
  分は元の現実に戻ってしまうのではないか。ではどうすればいいのか。
  己の悲しみ、孤独、不条理を正面から見据えて、それらの感情を体いっ
  ぱいで受け入れることだ。孤独も不条理も諦観も、自らが向き合って逆
  に味わい尽くさなければ、本当の意味では分からないし、自らがこれら
  のことにフェーシングしてこそ、本当の安寧、癒しが訪れるのではない
  だろうか。僕はそういうつもりで今回ピアノを弾いた。だから、言葉を
  変えれば、この演奏は、毒にもなりかねない。誰も彼もが本当の孤独や
  悲しみに正面切って立ち向かうことができるとも思えないし、事と次第
  によっては、僕だって顔をそむけることはあるだろう。しかし、僕は、
  ピアノという楽器を通して、今回のCDで、正面切って一番深いところに
  ある悲しみを音に託したつもりだ。感じることのできる人が必ずいると
  は限らないという、そこにこそある意味の諦観を、不条理を乗り越えて
  演奏した。

アリストテレスは哲学のはじまりに「驚き」を置いたけれど、
西田幾多郎は「悲しみ」を置いた。

ぼくの根底にもまた(哲学というほどではないが)「悲しみ」がある。

だから、ぼくが音楽に求めるものも
その根底に「悲しみ」を感じるものであるのかもしれない。
しかし、それは短調であるということを必ずしも意味しないし、
直接的に「悲しいぞ」ということを表現している必要もない。
必要なのは、引用にもあるように
「己の悲しみ、孤独、不条理を正面から見据えて、
それらの感情を体いっぱいで受け入れ」てくれること。
そんな諦観を静かにともにできる音楽。

どうして、ぼくの根底には「悲しみ」がある。
そんなふうに感じてしまうのだろう。
何度もそれを自問してもみるのだけれど、
なにかぼくの深いところに地層のようになった、
もしくは地底湖から流れ出している河のように、
自分を降りていくと「悲しみ」という大地が、河がある。

ある人にはそれは「驚き」であるのかもしれないし、
ある人はそれが「怒り」であるのかもしれない、
またそれは「愛」であるというひともいるだろうし、
「恋(乞い)」であるという人もいるだろう。
けれど、ぼくの場合、それは「悲しみ」以外にはありえない。

しかし、そういうぼくの「悲しみ」にも
変容の契機というのはあるのだろうということに
気づくことができるようになったのは、
「悲しみ」を生み出したのがこの感覚世界であるように、
その「悲しみ」を変容させてくれるのも、
またこの感覚世界やその背後にある世界の秘密なのかもしれない。
そういうことを学ぶことによってである。

シュタイナーは,この地上は「悲しみの谷ではない」といっている。
たしかに、精神科学的にいっても、「悲しみの谷」であっていいはずがない。

しかし、シュタイナーの気質は、多血・胆汁。
そこからは「驚き」はでてくるだろうが、「悲しみ」はでてきにくい。
ぼくの場合、気質は、憂鬱・多血。
基本ベースは憂鬱質である。
憂鬱質は、肉体に入り込みすぎているところからくる。
本来、肉体に入りすぎる傾向にあるとき、
人はその鬱ゆえの、肉体から逃れられないがゆえの
悲しみのトーンを湛えざるを得ないのではないか。
というのが、ぼくの勝手な解釈である。
鬱には、エレジーが似合う。

しかし、その悲しみがいつまでも悲しみのままであっていいわけではない。
エレジーは悲しみに浸り沈潜するためのものではなく、
悲しみを受けいれながらも、それを変容させていくものでありたい。

シュタイナーは、内面への旅を
「驚き」から「畏敬」へ、「宇宙叡智との一致」、
そして「宇宙事象への帰依」へと方向づけている。
ぼくは、その旅を
「悲しみ」からどこへと方向づければいいのだろうか。
その河の静かな流れをゆく舟で、どこに向かえばいいのだろうか。
「悲しみの谷」を離れて。

「かなしみ」については、
二年ほど前に、NHKラジオで放送された際の
竹内整一「<かなしみ>と日本人」というテキストが手元にある。

  <かなし>とは、「……しかねる」のカネと同根とされる言葉で、力が
  及ばず、どうしようもない切なさを表すことばです。すなわち<かなし
  み>とは、みずからの有限さ・無力さを深く感じとる感情ですが、しか
  し、そうしたことを感じとることにおいて、そこに、ある種の倫理性、
  あるいは無限(超越)性を獲得できる感情としても働いています。

肉体に入りこみすぎたがゆえの悲しみは、
そのことから逃れることで悲しみを去ろうとするのではなく、
その肉体の「有限さ・無力さ」から目をそむけるのではなく、
そこでこそ展開されるもののほうに目を転じていく必要があるのだろう。
キリストが肉をもち、死後、地下へと下ったように、
肉体へと下ってきた私たちは、その悲しみゆえにこそ、
肉体へと下らなければ獲得できない
「ある種の倫理性、あるいは無限(超越)性」を獲得しなければならない。
無限に向かうためにこそ、有限のなかをゆく悲しみがある。

そうした、無限へと向かうための不条理を奏でるエレジーを。