風のトポスノート699
ノスタルジアの活用と離脱
2009.4.1

 

 

室生犀星の『叙情小曲集』に有名な
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」
「帰るところにあるまじや」云々というのがあるが、
シュタイナーは故郷喪失者について語っていて、
それは「ひとつのまわり道」であって
そのまわり道である「故郷喪失という聖地」に至ることで
人類進化における土着のものとの調和を見出すことができるという。

とはいえ、「故郷」ということで表現されているのは「民族魂」的なものであって、
「民族魂の自己認識」を理解しそれに寄与する必要性はあるとしても
民族魂的なものに融合してしまうことが
人間進化の目的ではないことはおさえておく必要がある。

卑近なところでいえば、
家族や血縁、地縁などとにしても、
ある意味それらをいちど「喪失」した場所に自分を置くことで、
むしろそれらとの調和、理解や寄与の可能性を得るが、
個々人の目的がそれらに着地してしまうわけではないということでもある。
そういう文脈から「共同体」の可能性を考えてみると、
「共同体のための共同体」になってしまうことを
注意深く避ける必要があるということでもあるだろう。

ところで、ぼくにとっての「ふるさと」というのはどこだろうと考えてみる。
もちろん生まれたところはあるし、育ったところもあって、
それはそれでそれなりの場所ではあるのだけれど、
それらは最初から「ふるさと」ではなかったように思うし、
ましては「遠きにありて思」ったりもとくにはないし、
そこに帰りたいとかいうこともまずないし、
そういう場所がほしいということもない。
自分が帰属するそれなりの社会や組織などにしても、
それらのなかで自分がそれなりに位置しているとしても、
それはそのときどきの乗り物のようなものだと思っている。
そしてその乗り物にいることで必要なマナーなどは守る。
その乗り物のひとつが、日本であったりもするわけである。
そして乗っている以上は、そこで理解しておくことが必要なことを理解する。

さて、「ふるさと」について書き始めたのは、
実は、「西條八十」の伝記を読んでいたからで、
そのなかに「ノスタルジア」について
こんなふうに書かれてあったのがきっかけであったりする。
「ふるさと」は生まれ育った故郷だけではなく、
自分の「幼児回帰・ 過去回帰願望」でもあるだろうからである。
自分が自分であるというアイデンティティを過去に求めるということ。

  八十のパーソナリティの特質として指摘できるのは、その強い
 ノスタルジー志向であろう。現代への寂寥感が、強い幼児回帰・
 過去回帰願望に行きついているのである。
  では、ノスタルジーとは一体いかなり感情であるのか。ここで
 は、ノスタルジー(の源泉)を「アイデンティティの非連続への
 恐れにある」とする社会学者F・デーヴィスの議論をもとにして
 少しく考察しておこう。
  デーヴィスは、ノスタルジーの発生を次のように説明している。
 「(1)過去のある状態は、たとえ正面切って意識されていなく
 とも、常に現在に対する恐れや不満、不安、または不確実感の文
 脈のなかでノスタルジックに思い出されてくるのであり、(2)
 このような情動や認知状態はアイデンティティの非連続という恐
 れを生じさせるので(中略)、ノスタルジアは連続を確保するた
 め、われわれの心理的資源を動員してこの恐れを鎮めるか、さも
 なければせめてそらせようとするのである。」
  従って、ノスタルジーは「幼年期から思春期への依存期から成
 人としての独立期へ」をはじめとする「アイデンティティの変化
 と順応をもっとも強く要求されるライフ・サイクルの移行期に顕
 著に現れる」のである。人は人生の重要な節目ごとに現われる困
 難な精神状態を回避もしくは克服するために過去を想い出し、そ
 れに浸る行為を行なうのである。
  そして、「この移行のもつ深さとドラマ性のゆえに、青年期が、
 ノスタルジアを引き起こすうえで多かれ少なかれ永続的で再生可
 能な主題として。パーソナリティのなかに制度化されている」
 「青年期の体験が、いわばノスタルジアの生涯にわたりキャリア
 のなかで中心を占める」ことになるのである。
  こうした青年期の重要性への認識は、「青年期以降の人生は存
 在しない」という主張や、「青年期以降の時代を妥協、偽善、怠
 慢、すなわち魂の死によって、取り返しのつかないほど傷ついた
 時代として描く」ことにもつながる、とデーヴィスは指摘してい
 る。
 (筒井清忠『西条八十』中公文庫 2008.12.20発行/P.20-21)

「私とはいったいだれか」
というのは永遠の問いでもあり、
それが「汝自身を知れ」ということにもなってくるわけだが、
自分が自分であるというアイデンティティをどこにもとめるか
ということに対する指向はひとそれぞれで、
それが「ふるさと」だったり「幼年期」だったりもすることはよく見られるし、
それにはそれなりの「理由」もまたあるだろう。
そして、自分が求めているアイデンティティと
今の自分があまりに異なっていると思うならば、
その、いわば「断絶」に苦しんだりもすることになる。

実際、自分が自分であることを
あまりにも実感できなくなると病にもなってしまうわけで、
たとえ仮構されたというかかりそめのペルソナであったとしても
それがある程度機能していないと、やはり生きていくのは難しい。
子どもが育っていくときの「模倣」時期の必要性にも似て、
そういうペルソナ的なものが形成されないと、
その後の自我の発達が著しく疎外されてしまうことにもなる。

しかし、そのペルソナ部分があまりにもスクエアに固定されてしまって、
それが変容していくのを拒み過去にしがみつきすぎるようになると
なかなか大変なことではある。
とはいえそうしたありようも、また
そのエネルギーを屈折したかたちであれ活用して
ある種のクリエイティブなエネルギーとして使っていくのもありだとは思うが、
それにしても、過去をトラウマだとかPTSDだとの方向に向けないで
魂を成長させていくことは非常に重要なことだと思う。
とはいえ、だれにでもできるだけふれたくない魂のエッジのようなものはあって

そのエッジに直面できるようになる準備運動は必要で、
そういう準備運動がないままに直面してしまうと
いわば「魂の死」とかにもなってしまいかねないので慎重に。