風のトポスノート698
死刑への想像力
2009.3.19

 

 

このところ、「死刑」について意識的になっていることもあって、
ネットでさらりと(?)記されているこんな記事が気になってしまう。

  闇サイト殺人判決、1人無期に傍聴の母「落胆しています」
  (3月18日15時28分配信 読売新聞)

  「無慈悲な犯行で戦慄(せんりつ)を禁じ得ない」−−。名古屋市の契約社員、
  磯谷(いそがい)利恵さん(当時31歳)が2007年8月、帰宅途中に拉致、
  殺害された闇サイト殺人事件で、名古屋地裁は18日、被告3人のうち2人
  に死刑、1人に無期懲役を選択した。
   死刑適用の有無が注目を集める中、判決主文を無表情で聞いた3被告。手
  塩にかけたまな娘を無残に奪われた母親は、傍聴席で目頭をぬぐい、改めて
  無念をかみしめていた。
  (中略)
   閉廷後、富美子さんは、名古屋市内で沈痛な表情で記者会見し、「3人の
  極刑を望んでいたので判決には落胆しています」と目に涙をためながら話し
  た。

今の日本では「仇討ち」は禁止されているので、
「極刑を望む」ということは、
「お上」に代わって殺してほしいということである。
「お上」というのは、私たちの代表でもあるわけで、
そうなると、死刑にするということは
私たちみんながその人を殺すことに同意するということでもある。
そして死刑にするということは、間接的に私たちみんなが
その人を殺すということにほかならない。

いわゆる先進国といわれる国で死刑制度があるのは
アメリカとこの日本だけだという。
そして日本ではこのところ死刑判決やその執行が増えているという。
「遺族」の応報感情、そしてそれに共鳴する多くの第三者の感情。
そして、さまざまな危機管理意識を背景にした恐れを払拭するための極刑。

もし、仇に直接仇討ちできるとしたら、
極刑を望む遺族は、その犯人を直接殺害できるだろうか。
共鳴する第三者にしても、
自分が直接その手を下すとしたら殺せるだろうか。

自分の見えないところできわめて間接的に行なわれるとしても、
実際のところ、死刑というのは私たちが殺しているのは間違いない。
少なくとも、死刑を望むのだとしたら、
直接的に人を殺すという想像力が必要なのだろうと思う。
少なくとも、ブラックボックスのなかでの死刑では死刑の意味がないと思う。
かつてイエスが十字架刑に処せられたのを多くの人が取り囲んで見たように、
魔女裁判で火あぶりになるのを多くの人が見たように、
フランス革命で取り入れられたギロチンによる処刑を多くの人が見たように、
そうした現場に居合わせて「殺せ!殺せ!」と叫ぶ勇気(?)をもつ必要がある

直接人を殺すのにためらいのない人や
人が殺されるところにいて目を背けないでいられる人が
死刑を望むというのであれば、その人にぼくは何もいう言葉を持たない。

けれど、ぼくのごくごく素朴で単純な感情は、
人を直接殺すことをできるかぎり拒むだろうと思う。
人が殺されるところを進んで目にしたいとは思わない。
とはいえ、ぼくはその遺族ではないので、確かなことはいえない。
しかし、ぼくは少なくとも殺せないし、殺されるところを見たいとも思わない。
(もちろんそこに、「死」ということについての
神秘学的な認識も加える必要があるだろうが、
それについてはここではあえてふれないでおく。)

そんなことを、こうした新聞記事などを目にしたときには
つらつらと考えたりすることがよくあるのだけれど、
森達也の『死刑/人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』を読んで

あらためてそこらへんのぼくの「考え」や「感情」を
少しだけ整理することができたのではないかと思うので、
そのさわりのところを少し(とはいえ長めだけれど)引いておくことにしたい。

  死刑を存置せねばならない論理的な理由はどこにもない。探したけれど
 見つからない。逃げ出したセントバーナード犬がキッチンで見つからない
 のなら、戸棚や冷蔵庫に隠れていると考えるべきではなく、セントバーナ
 ード犬はキッチンにはいないと考えるべきなのだ。
  だからこれは現段階における僕の結論。論理的な整合性は死刑にはない。
 論理的には廃止するべきなのだ。
  でも実のところ僕のこの結論は、多くの先人たちが、これまでもずっと
 訴え続けてきている。ところが何も変わらない。
 (中略)
  近年の日本においては特に、発達したメディアを媒介にして、被害者遺
 族が抱く応報感情への第三者の共鳴が拡大しつつある(他国に比べて日本
 のメディアは、殺人事件を報道するパーセンテージが突出して高い)。こ
 れもまた裏返しの不安と恐怖の表われだ。価値観や規範を可視化できない
 個々の苛立ちや恐れが、絶対的な正義の存在を希求する。人は規範に従い
 たい生きものなのだ。規範がないのなら無自覚に作り出す。そんな究極の
 規範が、この世界のどこかに存在してほしい。人はそう願う。
  これがこの国における死刑制度の本質だ。
 (中略)
  ならば僕は、論理から情緒を引き剥がすことを試みる。(中略)
  だから僕は軌道を修正する。死刑制度を整合化する最大の要素は論理で
 はない。情緒なのだ。ひとつは社会秩序の安定への希求、そしてもうひと
 つは、遺族の応報感情への共振。この二つの情緒に後付けで論理が薄く塗
 られている。コアは論理ではない。スペアリブに喩えれば情緒が骨なのだ。
 だから肉を削ぎ落として骨を見極める。それが今後の作業になる。
 (中略)
  いろいろ旅をしてきたつもりだけど、そしてそろそろ旅を終えねばなら
 ないのだけど、やはり僕には、死刑制度を維持しなくてはならない理由が
 わからない。
  死は個別的だ。徹底して。規範も倫理も政治もそこには介在できない。
 僕の死は誰にも共有できない。彼や彼女の死を僕は共有できない。
  彼が殺されるとき、僕は彼から排除される。暴力的に。人を殺すことの
 本質は、殺される人に対してだけの暴力なのではない。彼や彼女を知る人
 たちすべてに対しての暴力なのだ。そこにはこれから彼や彼女に会う人も
 含まれる。つまりこの世界が傷つけられる。だから人は人を殺してはいけ
 ない。
  仕事柄おおぜいの悪人と言われる人たちと僕は会ってきた。短気な人は
 いる。思慮が浅い人もいる。他人の痛みを想像することが下手な人はいる。
 自己中心的な人もいる。粗野な人はいる・失敗を他者になすりつける人も
 いる。
  でも生きる価値がない人などいない。生きる価値がないと思えるような
 人はひとりもいない。
  死んで当然の命などない。どんなに汚れていようと、歪んでいようと、
 殺されて当然の命などない。僕は彼に会った。そして救いたいと思った。
 そこに理由はない。今現在の確定死刑囚の数は百九人(2007年11月28
 日現在)。この百九人すべてにもし会ったとしたら、きっと僕は全員を
 救いたいと思うだろう。そしてきっとそれは僕だけじゃない。目の前に
 いる人がもしも死にかけているのなら、人はその人を救いたいと思う。
 あるいは思う前に身体が動くはずだ。その気持ちが湧いてこない理由は、
 今は目の前にいないからだ。知らないからだ。でも知れば、誰だってそ
 うなる。それは本能であり摂理でもある。
 (森達也『死刑/人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』
  朝日出版社 2008.1.20.発行 P.341-244,309-309)