風のトポスノート697
地図の想像力
2009.3.18

 

 

  地図という表現は、人間が世界を了解し、社会的世界を作り出す
 普遍的な能力ーー目に見えない「全体」を全域的空間像として把握
 する能力と、それを記号によって表象する能力ーーに根ざしている。
 (・・・)
  私たちがじかに見たり、触れたり、経験したりできることと、私
 たちが知り、意志し、欲望することとの間には、量的にも質的にも
 大きな隔たりがある。その一方で、私たちはその隔たりを難無く乗
 り越えて、見たことも触れたこともないものたちからできあがった
 世界を生きている。この本で考えてみたかったのは、人間が世界を
 生きる時に不可避的にぶつかってしまう、そのような問題について
 である。もうすこし具体的に言うと、私たちが「社会」と呼ぶ行為
 や関係、経験の場を、「見たことも、触れたこともないもの」に囚
 われる人間の世界経験という構図の上で考えてみること。それが本
 書で私が考えてみたかった問題である。
 (若林幹夫『地図の想像力』河出文庫
  2009.2.20発行/P.74,324-325,74)

もし「じかに見たり、触れたり、経験したりできる」範囲だけに
私の世界が限定されるとしたらどうだろう。

しかし私たちは、「見たことも触れたこともないものたちから
できあがった世界を生きている。」
つまり私たちが「現実」だと思っているものの多くは、
「見たことも触れたこともないもの」なのである。

地図というのも、
それがいかに正確に描かれているとしても、
それは「じかに見たり、触れたり、経験したりできる」ものではないし、
それがたとえ縮尺1/1、
つまり、実際のサイズと同じものであったとしても同様である。
地図は、なんらかの目的のために、
多くは私たちがその道を辿ったり、調べたり、
想定する「全体」をなんらかの観点で把握するために作られる
ある種の記号によって記述されるシミュレーションである。

そもそも私たちが使っている「言語」や
それに準じたさまざまな「記号」というのも
私たちがそこで生きている世界そのものではなく、
ましてや「じかに見たり、触れたり、経験したりできる」のは
アイコンとしてのカタチであったり記号形象だったり、
また音声であったり、意味であったり、概念であったりするわけで、
ふつうの意味で「じかに見たり、触れたり、経験したりできる」ものとは
ずいぶんその様相を異にしている。

しかし私たちが「現実」だと思っているものは、
ずいぶんと言語や記号に依存しているし、
そもそも「思考」というのも、
「じかに見たり、触れたり」できるようなものではないにもかかわらず、
それがなければ、私たちの「世界」は成り立たない。

もちろん、五感によってとらえることのできる世界にしても、
それは直接的なインプットでもなく、
ずいぶんとある種のフィルターなり関数的な変換のようなカタチで
さまざまな色がついているわけだけれど、
それ以上に、言語や記号やさまざまな図式に依っていることの多い
思考というのは、「世界」をかなり抽象化しデフォルメしてしまうことになる。

そしてそこで大変重要になってくるのが「想像力」なのだけれど、
その「想像力」如何ではずいぶんと世界は異なった相貌をもってしまう。
たとえばある種図式的な理解は避けられないところがあるとしても、
その理解をサポートしたはずの図式に今度は縛られてしまったりもするわけで、
想像力がプラスにもマイナスにも働くことになる。
それでも、想像力がなければなにもはじまらない。
そこで重要なのはやはり想像力の質とでもいえるだろうか。
そして、自分が何を「想像」しているのかについて常にフィードバックできる、
というのはその最初の出発点ではないかと思われる。
想像力の自動制御装置とでもいえるだろうか。
もちろん、車の運転と同じで、アクセルがないと前に進まないし、
状況によってギアもシフトしたりする必要があるのだけれど。