風のトポスノート695
思考停止の背景
2009.2.28

 

 

 ーー日本のテレビで仕事をするようになって、デーブがまず
 不思議に思ったのは、膨大な数の「放送禁止用語」の存在だ
 という。やがて、この実態は正確にいえば「放送自粛用語」
 であることがわかってきた。
 デーブ「最初の頃は使っちゃいけないその理由を、いちいち
 スタッフに訊ねていたんだけど、『抗議がくるから』という
 よくわからない説明がほとんどだった。それでどうやら本来
 の意味での放送禁止用語は実は一つもないことがわかってき
 た。これも一種のPC(politically correct)だよね。自粛す
 る自分を気遣って、規制の主体は他にいるよと暗に伝えてい
 るわけでしょう? ようするに個人としては判断しない。た
 だリスクを負いたくないってことだよね」(P.163-164)
  メディアには巨大な力はあっても自覚はない。みごとにな
 い。無自覚であるがゆえに、事態を前にあっさりと思考停止
 に陥り、規制という共同幻想をたやすく信じこんでしまって
 いる。(・・・)
  それでなくとも共同体への帰属意識が強い日本では、この
 感覚や論理の麻痺は頻繁にある。その究極にあるのが戦争だ。
 二〇世紀の前半、僕らの父祖や曾祖父の世代にしてみれば、
 いつのまにか昂揚して、いつのまにか始まっていた戦争なの
 だ。だからこそ責任の所在は未だにはっきりしない。他を捜
 すから見つからない。他者ではない、自分自身なのだ。
  決して昔話ではない。現在のメディア全般に、さらには日
 本全般に、その兆候は明らかに現れている。そして日々強く
 なっている。だからこそ訴えたい。政治が悪い。メディアが
 悪い。でもその根源は、徹頭徹尾、僕たちなのだ。
  タブーが生まれる背景には時代の必然がある。その意味で
 「規制」は不必要とは僕は思わない。しかし、そのあり方に
 自覚的になるだけで、世の中の見方はずいぶん変わる。少な
 くとも、形骸化していた規制を一〇年以上引きずるような愚
 行を続けることはなくなるはずだ。(・・・)
 「自覚性を持つこと。主語を自分にすること」
  文字にするとたったこれだけの作業だ。しかしこの作業が、
 メディアに、そして日本人全般に、そして実は誰よりも僕自
 身に、今、大きく欠落していることは間違いない。
 (森達也『放送禁止歌』光文社知恵の森文庫/P.99-101)

ボランティアが点数化されて制度に組み込まれる。
自主的にしなさい、という言葉が平気で使われる。
明確に言語化されないでも、「上」の意向を汲み取り推し量って、
いわば自主的に行うことが美徳のようにいわれたりもする。

もし本来の高次の意識を持ち得て
通常は知ることのむずかしいことを認識し、
その認識に基づいて行動するのであれば、
そしてそれが自分を主語としてのものであるならば、
それはそれで意味のあることなのかもしれないが、
ここでいうことはそういうことではなく、
むしろその反対の、自分という主語をなくすことで
自己責任を無化したうえで、
思考停止のまま、どこか「上」からやってくる「声」に
唯々諾々と自分から尻尾を振って
「空気」に従ってしまうようなあり方だ。
だから、そのことの責任を問われても、だれも責任を負うものはない。
「あのときにはそうするしかなかったのだ」ということになるだけ。
実際、その人にとってみれば、そうするしかなかったのかもしれない。
しかし、たとえそれが一人だけではなかったとしても、
そうしたのは、まさに自分にほかならないのである。

日本では、さまざまなダブルバインドにさらされることが多い。
ぼくの体験でも、学校でも職場でも、他の場所でも、
本音と建て前という二重化された思考形態が要求される。
もちろんそれによって円滑に事態が流れるというのはあるのだが、
とくに、「自主的にしなさい」というような指示は
それはまさに、「自分で考えなさい。でも、自分で考えてはいけない」
という指示であって、そういう意識をすり込まれてしまうと、
自分という主語を明確にした、つまり自分の責任主体を明確にしたありかたは
育っていく土壌をスポイルされるであろうことは
少し考えてみるだけで明らかだろうと思う。

「素直なよい子」がほめられるというのも、それに追随する。
「素直なよい子」が自覚的に機能するためには、
おそらくはその「素直さ」や「よい子であること」と
まったく反対のものやグレーゾーンも含めて検討した上で、
しかも処世的にそうすることのメリットを理解し、
そうすることが全体として、そうしないことよりも
はるかに利益が高いことからそれに基づいて行動することが条件になる。
でないとすれば、それはただちゃんと空気を読んで、
ひとが「素直」であり「よい」とすることを自分から行うだけの
ロボットになること以外を意味しない。
そういう子はたしかに「素直なよい子」かもしれないが、
そこからは「そうでないこと」が排除されているだけのことであり、
「素直なよい子」がすべてレミングのように暴走したときに
それに逆らうことはできなくなる。
そして暴走した責任は、その「素直なよい子」であるのが明らかだとしても、
「あのときにはそうするしかなかったのだ」というしかなくなる。

日本中が、メディアも政治ももちろん官僚たちも、
すべてがそういう「素直なよい子」であることを
我先に目指しているように見えてしまうのはぼくだけだろうか。
もちろん、さまざまな立場を利用して個人的な利得を求める
そういう場での人たちは後を絶たないとしても、
全体として、ある種の傾向を有しているようにぼくには見えてしまう。
つまり、まさに次のことから目をそらしているということである。

「自覚性を持つこと。主語を自分にすること」