風のトポスノート694
「われわれ」と「かれら」
2009.2.25

 

 

 森 メディアにおけるリアリティは、本物ではなく、本物らしい
 ということです。これは決して皮肉ではなく、受け取る側の感応
 力が重要なんです。だからこそ、メディアが発達することで、リ
 アリティは増大せずに逆に喪失するんです。(・・・)
 森巣 思考を停止させるものが何なのかというところに繋がるも
 のですね。他者に対する想像力を喪失させる主因は何なのか?
 私は永い間、そのことを考え続けてきたように感じます。20代
 の前半、私はセックス・ドラッグス・ロックンロールで、世界を
 放浪しました。今でも憶えていることがある。アムステルダムで、
 ドイツの小説を読んでいました。(中略)
  舞台は、第二次大戦後のドイツです。復員してきた男がいる。
 ストーリーは、その男の娘の視点で語られます。父親や献身的に
 社会に奉仕する。よき家庭人であり、よき経済人であり、よき社
 会人でした。ところが、夜ごとに悪夢にうなされる。断片的に発
 する叫びは、戦争にまつわるものです。しかし父親は過去を一切、
 語りません。
  それで娘が父親の過去を調べる。すると明らかになったのは、
 父親が戦争中に行った所業でした。父親は、アウシュビッツで
 「鬼」と呼ばれたSS親衛隊員だったのです。それまで隠蔽されて
 いた父親の驚くべき過去が、次々とあばかれていく。
  娘は意を決し、父親を問い詰めます。
 「あなたのような人間に、どうしてあんな酷いことができたのか」
 と。
  そのときの父親の答えはこうだった。
 「娘よ、よく聴いてくれ。まず“われわれ”と“かれら”を分けた。
 あとは、簡単だった」
  これは衝撃的な言葉でした。もちろん、この「かれら」は、「彼
 女ら」を含む「かれら」の意です。
  そうなんですよ。「われわれ」と「かれら」の問題なんです。
 (中略)
  イラクのアルグレイブ収容所のあの善良そうな米軍女性兵士、顔
 を見ればわかりますがそんな酷い体験をしてきた顔じゃない。アメ
 リカ南部の中産階級のどこにでもいる子供だったのでしょう。それ
 が、ニコニコ笑いながら、兵士を拷問する。なぜそんなことができ
 るのか。それは「かれら」だからできた。
  私がいつもこだわる国民・非国民と同じ論理です。オウム相手だ
 からあんなムチャクチャな監視小屋ができ、女性の生理用品まで調
 べてもいいし、寝てるところに石を投げても、殴っても構わない。
 そばを通れば殺せ殺せってわめくし、あんなの死刑にしろと主張す
 る。とにかく何をしてもかまわない。どうしてそういうことができ
 るのか。「われわれ」じゃなくて「かれら」だからできる。「われ
 われ」ではなく「かれら」をマスコミが勝手に作り上げた。
 (森達也・森巣博
 『ご臨終メディア/質問しないマスコミと一人で考えない日本人』
  集英社新書 2005.10.19.発行/P.183-186)

こんなエピソードがある。
実の弟を殺された原田正治は、獄中の長谷川を激しく憎悪して極刑、
つまり死刑を願っていたが、その長谷川から何度も謝罪の手紙をもらい、
面会することでその深い反省にふれるとともに、
長谷川の姉や子供が逮捕直後に自殺したことなども知る。
そして原田は死刑廃止運動に関わるようになる。
そして街頭でそのビラを配っていたときに、通行人から
「被害者の遺族の気持ちを考えろ」と罵倒される。
原田のグループのメンバーが「彼はその被害者遺族です」というと
通行人は気まずそうに走り去った。
(森達也『死刑』朝日出版社 2008.1.20.発行より)

その通行人はなぜ「被害者の遺族の気持ちを考えろ」と罵倒したのだろうか。
そして「彼はその被害者遺族です」といわれたら走り去ったのだろうか。
その通行人は少なくとも「被害者の遺族」ではないだろう。
「被害者の遺族」のことをほんとうに配慮したのかもしれないが、
マスコミへのクレームの多くや2チャンネル的な品の悪い批判にみられるように
「被害者の遺族」的なものをきっかけにして、
憎悪をぶつける対象を求めていたということも十分考えられる。

そのとき、その通行人は「われわれ」の代表になり、
「かれら」に対して怒りをぶつけたのではないだろうか。
なぜその通行人は「われわれ」の代表になりえるのだろうか。
おそらくそのときの「われわれ」の視線は、
責任を明確に有する個人としての「私」ではなかっただろう。
もしそうであったなら、気まずく走り去るのではなく、
なぜ「被害者の遺族」が死刑廃止運動に関わっているのかについて
意見を求めたはずだからだ。

この事例に限らず、すぐに
「われわれ」の代表になって「かれら」を峻別する
集合魂的なありようというのは珍しいものではない。
むしろ日常茶飯であるとさえいえる。
その「われわれ」になったときに、
「われわれ」のなかにはもちろん「かれら」はいない。
「かれら」でないことのレーゾンデートルが「われわれ」なのだから。

そのことを考えていくと、
なぜ「われわれ」と「かれら」をわけるか、
その根っこのところにあるものは、
シュタイナーが社会論で示唆したような
「自分の指だけをしゃぶってきれいにする」ことに
つながっているように思える。
「われわれ」として「かれら」という異物、危険物を廃することで
自分はきれいなままでいられるわけである。
そしてそのためにつくりだされるのが「かれら」なのである。
魔女を火あぶりにすることで、自分は魔女でないと安心できる。
自分が「安心・安全」でいられるように、
その「安心・安全」を脅かすかもしれない「かれら」の存在を屹立させる。
そのために自分は被害者の代弁をして加害者を非難することさえできる。

「愛」の反対のものがそこには現出する。
なぜ「愛」が生まれるためには「個」が必要なのだろうか。
「個」であることは、「われわれ」と「かれら」をわけないことである。
そして「私」は「私」として「汝」に向き合うことができる。
そのとき「私」は「われわれ」を代弁して「かれら」を廃するような
安易な図式のなかで自らを安心させることはできない。

日本マスメディアの多くは、現在非常な危険水位にあるように見えるが、
それはまさに日本人の多くが望むであろうこと、
クレームをつけてこないであろうことに向け、
つまりは、多くの人が「われわれ」であることに安住したいという
その願いを叶えるべく、報道内容を決定し、
それに沿わないと判断したときにはそれを自主規制する、
といったことを繰り返すことで、
思考能力を失い麻痺状態になっているからではないだろうか。

その意味で、自我の暴走しがちな西洋とは異なり、
日本では、まず「私」はどうなのかということから
始めることが重要なのだろうと思っている。
実際、日本人の多くは人ばかり気にして
「われわれ」になろうとばかりしているように見える。
エゴイスティックになるときにもひどく「われわれ」的なのだ。
そしてそこでは常に「主語」があいまいになっている。
だからだれも責任をとることができない。
第二次世界大戦の頃とある意味でまるで変わらないように見えてしまうのだ。
そして、『ご臨終メディア』の副題にあるように
「質問しないマスコミと一人で考えない日本人」という現象が起こる。