風のトポスノート693
理解するために必要な魂の成熟
2009.2.4

 

 

 現代人のところに誰かがやって来て、次のように言ったとします。ーー
 「ピュタゴラスの定理を知っているね。しかし、この定理の神秘的な意
 味を深く理解しようとするなら、魂の試練をもっと受けなければならな
 い。直角三角形の直角を挟む二辺上の正方形の面積の和は、斜辺上の正
 方形の面積に等しい。この命題、または3×3が9である、という真実
 を理解できるほどにまで魂を成熟させるためには、お前はなお、あれこ
 れの試練を通過しなければならない」。
  誰かがそう言ったとしたら、その現代人は笑うしかないでしょう。そ
 してされに誰かが、「このことを理解するには、事物の法則にお前を一
 致させなければならない。宇宙は、数学の法則がわれわれの前に現われ
 るように、事物を秩序づけているのだ」、と言ったとしたら、さらに大
 笑いされてしまうでしょう。
  現代人は、依然として原罪を犯し続けて、どんな段階においても、す
 べてを理解できると思っています。ですからあれこれを理解するには、
 まず魂が試練を通らなければならない。そうでなければ、人間の判断力
 を総動員しても、現実を何ひとつ認識できない、という事実に眼を向け
 ようとはしません。
 (シュタイナー『感覚の世界から霊の世界へ』第一講
  シュタイナーコレクション2『内面への旅』筑摩書房/P.31-32)

なにかを理解する、認識するためには、
それにふさわしいまでに魂を成熟させなければならない。
魂を成熟させないで、理解したつもりになっているのは、
「原罪」を犯していることになるのだ。
そういうふうにいったとすれば、上記にもあるように、
「現代人」は大笑いするだけだろう。

しかし、計算ができるというように、
操作可能なかたちでなにかを理解するということは
必ずしもその現実を理解しているとはいえない。

現代における「お金」の問題いえば、
「お金」を上手に儲け、増やすことができたとしても、
「お金」を理解したということにはならない、
というのと同様である。
もし「お金」をほんとうに理解していたとしたら、
現代における経済の諸問題は起こらないのではないだろうか。
「お金」を理解しないまま、その操作技術を学ぶことだけを優先した結果、
現代のような状態になっているといえるように思う。

本来は、なにかを理解するためには、
まさに、それにふさわしい段階にまで
魂の試練を受け、成熟させる必要がある。

そして、魂の成熟には長い時間が必要である。
とはいえ、人は歳をとっていったからといって、
そのことは必ずしも魂の成熟を意味しない。
不惑の歳になったとしても決して惑わないわけではないように。

そのように、魂を成熟させるために必要な
長い忍耐強いプロセスを経ようとしないことを
上記引用では「原罪」といっているが、
そうした必要なプロセスをとばしてしまうことで陥ってしまう「原罪」について
別の観点(「無垢」「癒し」)から述べているのを見つけたのでついでに少し。

 「無垢(イノセンス)は強調されすぎると、その反対の極のものになる、
 とオコナーはいってるわ。もともと、私たちは無垢を失っているのに。
 キリストの罪の贖いをつうじて、一挙にじゃなく、ゆるゆると時間をか
 けて、私たちは無垢に戻るのだとも、彼女はいってるわ。現実での過程
 をとばして、安易にニセの無垢に戻ることが、つまりsentimentalityだ
 というわけね」
  癒されたい、癒してあげたい、そのような感情が過剰になり、「一挙
 にじゃなく、ゆるゆると時間をかけ」るのを忘れ、現実を無視してしま
 うと偽の解決が得られ、センチメンタリズムになる。しかし、もっと大
 切なことがある。オコナーはカトリックだから、「キリストの罪の贖い
 をつうじて」と言っているのだ。この点について、Kは彼の妻にオコナ
 ーの考えを説明して「真の優しさの根源には、神がいる。キリストとい
 う人間の顔かたちをとって、つまりpersonとしてのさ、人間の罪をあが
 なった神がいる」と言う。
 (河合隼雄/大江健三郎『人生の親戚』新潮文庫・解説より/P.264)

「罪」を「購」い、「無垢」に戻るためには
「ゆるゆると時間をかけ」なければならないにもかかわらず、
一挙に「癒し」や「罪」を「購」いを図ろうとすれば、
「偽の解決」としての「センチメンタリズム」になってしまう、ということ。

ある意味で、魂の成熟のない理解は「罪」である。
つまり、なにかを理解するためには、魂を無垢にする必要がある。
「わかった気になる」「わかったふりをする」というのは
魂を汚しているということにほかならないからである。
夥しい知識で塗り固めても、そしてそれを自由に操作できても、
それを理解しているということにはならないにもかかわらず、
その違いに気づかない、認めないということは
魂の成熟を犠牲に、つまり「原罪」を犯しているということになる。

「癒し」にしても同様で、
本来の癒しに必要な長いプロセスをスポイルして
それをファーストフード的にしてしまったときには
安易な「センチメンタリズム」に陥ってしまうことになる。
「癒す」ためにも、魂の成熟は不可欠であり、
「癒される」ためにも、その過程において魂の成熟が不可欠なのである。