風のトポスノート691
ほんとうのことをいうためのプロセス
2009.1.25

 

 

  もし我々が空想家のようだと言われるならば
  救いがたい理想主義者だと言われるならば
  できもしないことを考えていると言われるならば
  何千回でも答えよう

  そのとおりだ、と

チェ・ゲバラの残した言葉である。
まるで「イマジン」の歌詞のようだが、
ジョン・レノンが、「あの頃、世界で一番カッコいい男だった」
といったのも、それだけ影響を受けていたということだろう。

チェ・ゲバラは、キューバ革命成功の後、
1964年のニューヨークでの国連総会で
「アメリカ帝国主義」を批判した後、
アルジェリアでの「アジア・アフリカ人民連帯機構」の席上で
今度は、実質的なソ連批判を行い、
おそらくはそれも原因となり、キューバを離れることになる。
ソ連批判は「ほんとうのこと」ではあったが、
それを言挙げするプロセスを急ぎすぎたということなのだろう。

「フランシーヌの場合」という古い歌の歌詞に、たしか
「ほんとのことをいったら おりこうになれない」
というところがあったが、まさに、「おりこう」ではいられない。
ひょっとしたらこの歌の詩を書いた人は
ゲバラのことをどこかで思っていたのかもしれない。
宮沢賢治のいう「すきとおった ほんとうのたべもの」を
たべるためには、人間の長い長い悲しみをたどりかえすような
長い長いプロセスが必要なのだろう。
「ほんとうのこと」をいうための長い長いプロセス。

オバマは、ヒラリー・クリントンとの激しい使命争いの際の演説で
“Yes,we can(大丈夫、われわれにはできる)”といった。

  われわれは、そんなことは不可能だと言われました。
  坂が険しすぎると言われました。この国はあまりに
  冷笑的で、われわれは愚直にすぎ、現状の世界を真
  に変えることなどできないと言われました。しかし
  そのとき、アイオワ州の一握りの人々が立ち上がっ
  て言ったのです、「大丈夫、われわれにはできる」
  と。すると、ニューハンプシャー州の丘からサウス
  カロライナ州の岸にかけて、ボイシからバトンルー
  ジュにかけて、数百万という人々が立ち上がりまし
  た。そして今夜、皆さんのおかげで、皆さんが始め
  のちバーモント州の緑なす山々からサンアントニオ
  の通りにまで広がった運動のおかげで、われわれは
  立ち上がり・・・
  (・・・)
  われわれはこういいます、こう願います、こう信じ
  ます。大丈夫、われわれにはできると!
  『オバマ演説集』(朝日新聞社)

チェ・ゲバラのように急ぎすぎた革命家、カリスマがいて、
その急ぎすぎた人物を尊敬しながらも
ある意味で自分の身近な生活や自分を見つめかえそうとしたなかで
ほとんど悲劇的な死を迎えてしまう音楽家がいて、
「アメリカ帝国主義」のただなかで、その中心にいて
“Yes,we can”というメッセージを送る政治家がいる。

人間は、長い長いその辿ってきたプロセスのなかで、
深い深い悲しみや憎しみや怒りや不安をため込んできた。
その地層は目に見えるところだけではなく
目に見えないところで堆積し
さまざまな地殻変動などでひどく複雑に捻れ
それをどのように掘っていいかわからなくなっている。
それをどうしていいか、おそらくだれも正解をもたないだろう。

その深い深い捻れきった地層を掘り
それらをなんとかしようとする人は
「空想家」「理想主義者」
「できもしないことを考えている」と言われながら
「そのとおりだ」と「何千回でも」答えなければならないだろう。
おそらくは、仏陀がイエスがそうであったように。

そしてそれは、大きな政治的革命のような形でも
あらわれるかもしれないが、
それらの「空想「や「理想」のためには
それぞれの人間がその内なる中心をもった曼荼羅を
描くことからはじめなければならないだろう。

だからその「ほんとうのこと」は、
人を変えることではなく、
自分を変えることを
「ほんとうのこと」にしなければならない。
自分のなかにも意識だけではとらえられない
深い深い無意識の世界があり
意識が「ほんとう」だと思っても
無意識の「ほんとう」とはひどく異なっているかもしれない。

そうした自分の、自分でさえわからない自分と
自分を含む、見える世界、見えない世界とを
「ほんとうのこと」にむけて開いていくためには
そのためのとほうもないプロセスが必要とされることだろう。
目の前の怒りや悲しみでみずからを爆発させるのではなく、
「ほんとうのこと」を見つめ直し、それを解きほぐし、
その地層を掘りながらその奥に眠っている石を見つけるプロセスが。

そしてその一人ひとりの小さなプロセスは、
宇宙の全体を反映するモナドでもある。
まるで華厳経の「一即一切・一切一即」、
「一入一切、一切一入」という重重無尽の縁起の世界のように。

その重重無尽の縁起の世界は、
この地上世界のなかでは、あらゆるひとやあらゆるものたちが
同時に中心となって部分と全体が呼応しながら現れ
こうしてひどく混乱して見えている。
そしてそこに「ほんとうのこと」は埋もれ見えなくなっているが、
しかし逆にすべての混乱そのもののなかにこそ
「ほんとうのこと」は照り映えているということもできる。

その「ほんとうのこと」が照り映えている
モナドであり曼荼羅であるみずからを顕現させていくためには、
ときには、ゲバラのように急進的な革命家であることも必要だろうし、
「ほんとうのこと」をいわないで「おりこう」になっておくのも
またそれぞれのやり方なのかもしれないけれど、
“Yes,we can”という理想や空想をたしかにもちながらも、
長い長いプロセスのなかで「ほんとうのこと」を
じっくりと自分なりに解きほぐしていくことが必要なのだろうと思う。
急ぎすぎると、こんがらがった紐は修復できないまでになってしまうから。
修復できずに紐を使えないものにしてしまうと
いつまでも「すきとおったほんとうのたべもの」を食べることができない。
ほんとうは、目の前にひろがる世界そのもののなかで
たべることのできるほんとうの食べ物のことが見えなくなってしまう。