風のトポスノート690

 

プロセスとしてとらえた曼荼羅の主体である萃点としての自己


2009.1.22

 

シュタイナーの精神科学は「自我論」としてとらえることもできるが、
その際、その自我をスタティックなものとしてとらえるとよくわからなくなる。
人間は、構成要素として「肉体ーエーテル体ーアストラル体ー自我」を持っていて
自我がアストラル体、エーテル体、肉体に働きかけることで、
より高次の霊我、生命霊、霊人という構成要素が形成されていく・・・
というふうにとらえたときの「自我」という
その働きかける主体であるだろう「自我」というのはいったい何なのか。

実際、シュタイナーは、通常の自我だけを自我としているのではなく、
第二の自我というか自己についても言及しているが、
この肉体のなかに入りこんでいる自我を重視しているというか、
かなり素朴なまでの表現で自我について述べているというのは、
まさにそれがある意味で「宇宙」の中心でもあるからだろう。
「私はありてあるものである(私は私であるである)」というのは
まさにその「私(自我)」そのものの本来のありようについての表現である。

では、なぜ「私(自我)」という主体が問題なのかということを
南方熊楠の「萃点」という、動的にとらえられた曼荼羅の主体について
語られたところから見てみたいと思う(以下の少し長い引用)。

明確にこうだとかいうことを説明することはできないのだけれど、
「私(自我)」をこのようにとらえるならば、
この個としての「私(自我)」においても、
それが宇宙の複数の主体における中心としての「私(自我)」においても、
とらえることができるように思える。
そしてなぜ「キリスト」が問題になるかを理解するにあたっても
重要な示唆となるのではないかと思う。
宇宙曼荼羅の交差点であり中心である「萃点」である「キリスト」が
あらゆる主体としての「私(自我)」としての可能性の中心であり、
それがスタティックな中心ではなくダイナミックな中心であるということ。
そうすれば、すべての事象に自分が関係していないことはなく、
個の問題から社会の問題、自然の問題などなど、
あらゆる問題をその可能性のなかからとらえることも可能になってくるのではないか。
そんなことを夢想してみた。

 川勝 『南方熊楠・ 萃点の思想』の「萃点」の一語、重要なコンセプトを、
 本のタイトルにされた。内容からすると、大日如来とか、大不思議とか、
 言葉ではわかりませんが、南方熊楠の図を見て、一番交わるところ、これ
 が 萃点。
 鶴見 中央じゃない。周辺に対する中央ではないの。あれは交わるところ、
 交差点。
 川勝 その重要性を何度も強調されていますね。「 萃点」が、これからの
 内発的発展論と合わさって議論されていくのではないかと思います。
 鶴見 ほんとに南方はすごいと思うの。「萃点」という言葉が仏教哲学の
 中にあるのか、曼荼羅の中にあるのか、私ほんとに中村元さんにききたか
 ったの。だけど松居竜五さんから最近手紙がきて、いろいろ問い合わせて
 みた結果、仏典の中に 萃点という言葉はどうやらないようです、と。それ
 でやっと安心したの。これが南方の造語であるとしたら、これが一番すば
 らしい。つまり交わるところとすれば、曼荼羅はスタティック・モデル、
 つまりポストモルテム・モデルじゃなくて、プロセス・モデルになると。
 交わるから、ここから何が出てくるかわからない。これがほんとの独創性
 だと。いまはやっとそこがわかったの。
 川勝 おもしろいのは、人生における萃点というのは動く。
 鶴見  萃点移動。
 川勝 曼荼羅は、大日如来がまん中にいらして、全部静態的、スタティッ
 クですが、萃点は、いろいろな関係性の交点なので、プロセスの中にあり
 ます……。
 (・・・)
 川勝 不思議なんです。アイデンティティというのは、十年間、二十年間、
 お目にかからなかった人に、十年ぶり、二十年ぶりにお目にかかっても、
 さっとわかりますから、連続性がある。しかしそのことと、萃点が移動す
 ることとは矛盾しないと思います。たとえば私は世界の中で一つの中心だ
 けれど、その中心はすべての人たちと同じではない。それは関係性の中で
 動くので、萃点も移動すると思います。
 鶴見 自己の一貫性とどう関わるか。
 川勝 どう関わるか。どう動くかというのは、人間が選択します。
 鶴見 選択する主体は比較的変わらないですね。
 川勝 変わらないと同時に、選択する能力が発現してくる。
 (・・・)
 川勝 では仮に「萃点は我なり、自己こそが萃点なり」とします。それぞ
 れが萃点をもっていますから、個人として萃点である場合も、集団として
 の個的存在、たとえば教会が萃点になりうる場合もあります。ただ、一番
 の基礎は一人。人は世界観、自然観、宇宙の中での位置づけをもっている。
 それは要するに曼荼羅をもっているということですね。(・・・)
  曼荼羅に主体を入れればいい。主体のない曼荼羅図はないと思います。
 物の事象と心の事象、これを一つにする。物と心を一つにする。とらえる
 場所はまさに己自身であり、それが萃点の基礎です。(・・・)萃点は存
 在するすべての主体になりうる。
 鶴見 だから萃点移動が可能だと。そうだ、自分が萃点たらんとすればい
 いわけよね。
 川勝 いかにも。それはなぜか、己自身がすべての事象、すべての物事の
 通過点であり、媒体だからです。
 (鶴見和子・川勝平太『「内発的発展」とは何か』藤原書店/P.69-73,115)